そろばんの暗号

 日本を代表する推理作家であった江戸川乱歩(一八九四年~一九六五年)は、作家になる前に、鳥羽造船所電機部の庶務課で働いていた。
 当時は大正時代であり、電子計算機も電卓もなかったので、乱歩先生は、とうぜんながら、十露盤(そろばん)を使っていた。(変体仮名では、十は、そ、と読む)
 このときの経験をもとに、『算盤が恋を語る話』を書くことになる。
 造船所の事務室で、乱歩先生と思われる事務員の男が、おなじ事務室の女性に好意をもった。しかし、男は自分に自信がなく、女性に声をかけることがどうしてもできない。そこで算盤をはじいて、
 1,245,322,222.72
 (十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭)をあらわす算盤を彼女の机に置いたのだ。(大正時代、「円」で終わらず、「銭」まで数えた)
 朝、彼女が出社したとき、「あれ」という顔で机の上の算盤を見たものの、彼女は盤面の数字の意味に気づかない。事務員の男は、内心でがっかりした。
 鳥羽造船所では、多くの社員を識別するために、名字の最初の文字に対して、「あ」なら1・1とか、「も」なら7・5とか、「す」なら3・3とか、数字を割り振って社員を管理していた。
 だから、この算盤を解読すれば、彼女にあこがれの思いが伝わるはずなのだが・・・。
 事務員の男は、一度や二度の失敗にあきらめずに、毎日、おなじ数をはじいた算盤を彼女の机の上に置いた。
 すると、ある日、ふと彼女は顔を赤らめた。
 「愛しき君」(いとしききみ)と読めたからだ。
 上の五十音図を見てもらえば、みなさんにも解読できるだろう。
 1・2 い
 4・5 と
 3・2 し
 2・2 き
 2・2 き
 7・2 み
 愛しき君というのは、当時においては、大胆な告白であろう。
 興味がわいたら、直接、乱歩先生の小説を読んでください。推理小説であるから、あとは「読んでのお楽しみ」である。
 さて、これを利用すると、君たちも算盤で暗号のやり取りができる。
 たとえば、君が「1,222,713,321」と算盤に数を置いておくと、友だちが「121,285」とか「7,392」と答える。
 君の暗号は、「いきますか?」で、友だちの答えは、「いいよ」と「むり」となる。
 だれかを評価するときにも、「12,128,143」とか「229,112」とか算盤の暗号でやり取りができる。慣れてくると、五十音図を見なくても、つくれるようになる。「12,128,143」は「いいやつ」、「229,112」は「きらい」となる。
 大正時代の日本人は、多くの人たちが算盤を使っていた。もしかしたら、日本のあちこちで、算盤による暗号が取り交わされていたかもしれない。

学院長 筒井保明