吉田松陰とそろばん

 明治維新の精神的指導者であった吉田松陰のことをみなさんは知っていますか。わずか三十年足らずの短い生涯でしたが、現在でも、松陰の志に感動する人たちがたくさんいます。小学生向けの伝記マンガもありますので、ぜひ図書館で借りて読んでみてください。
 短い生涯をざっとまとめますと、一八三〇年に、現在の山口県の萩で萩藩士の次男として生まれました。五歳から叔父が開いた松下村塾で指導を受け、九歳のとき、明倫館の兵学師範に就任していますので、早熟な秀才であったといえるでしょう。その後、十一歳で藩主に対する御前講義、十三歳で西洋艦隊撃滅演習。
 二十歳のとき、江戸に行き、佐久間象山に師事します。理由は、西洋列強と戦うための西洋兵学を学ぶためでした。
 二十二歳で脱藩。水戸や会津や津軽などをまわって江戸にもどりますが、とうぜん、罪に問われました。
 一八五三年、ペリー来航。二十三歳の松陰は、来年、ペリーたちが国書の回答を受け取りに来たとき、日本刀の切れ味を見せてやる、と力んでいたようです。
 外国留学を決意した松陰は、長崎でロシア軍艦に乗り込もうとするが失敗。
 一八五四年、ペリーが再びやってきたので、ペリーの旗艦に小舟を漕ぎ寄せ、勝手に乗り込みました。このとき、日本刀の切れ味を見せようとしたわけではないのですが、アメリカへの渡航を拒否されてしまいます。
 下田奉行所に自首、伝馬町牢屋敷に投獄されました。松陰は二十四歳。
 その後、死罪を許されて、萩に戻り、幽閉となりました。
 一八五七年、叔父から松下村塾を引き継ぎ、若者たちに学問を教えていきます。塾生のなかに、高杉晋作、伊藤博文、山形有朋などがいました。
 一八五八年、幕府が天皇の許可を得ずに、日米修好通商条約を結んだことにいきどおった松陰は、過激な行動を計画したり、幕府を強く批判したりしたために、危険人物とされ、ふたたび、幽閉されることになりました。
 一八五九年、安政の大獄に連座して、評定の結果、松陰は刑死。二十九歳でした。
 松陰の行動だけを見ますと、無鉄砲なようですが、かれが書き残したものを読むと、志の強さに打たれます。
 そんな吉田松陰が若者たちに勧めたのが、そろばんと地理でした。松陰は、そろばんの初心者たちのために、「九数乗除図」と題する図を書きました。この図は、松下村塾で配っていたものの写しです。
 みなさんも志を持って、そろばんに取り組みましょう。


学院長 筒井保明