正義と識別と仁愛

Uprightness, Discernment and Love

 浦和高校に進学した生徒が「将来、法曹界で活躍したい」という。つまり、裁判官、検察官、弁護士などになりたいということだ。「裁判官や検事や弁護士の精神って、なんだと思う?」と問いかけたら、ほんの 少し考えてから「法律の遵守ですか」と答えた。
「それだけじゃあ、人間がただの機械になってしまう。法学者の穂積重遠が浦和高校の生徒たちに語ったところでは…」と私の知ったかぶりを説明した。浦和高校の歴史を調べていたら、昭和11年に浦和高校が印刷して配布した穂積重遠(東京帝国大学教授・最高裁判所判事)の講演録があって、「いいことをいうなあ」と感心したところだったのである。
 イギリスの秋の裁判期に行う祈祷式では、裁判官や弁護士が一緒になって祈るそうだ。

 神よ。正しく、慈悲深い、全人類の裁判官よ。
 人と人のあいだに正義を与え、無実の人を明らかにし、
 判決を下し、罪人を罰するために、あなたが任命された従事者たちを
 天より見守りたまえ。
 あなたの聖霊、すなわち、正義の精神、識別の精神、仁愛の精神を授けたまえ。
 大胆に、細心に、慈悲深く、聖なる義務を果たさせたまえ。
 あなたの民とあなたの名の栄誉のために。
 我らの主イエス・キリストをとおして、アーメン。

 法の精神において「正義」「識別」は不可欠なものに違いないが、日本の法律家には愛が足りない、と穂積先生は指摘する。「根本に仁愛がなければ人間として完成しない。それと同じように、裁判においても、物をよく見分けて断然たる裁断を下すというだけでは本当の裁判ではない。その根本に真に人を愛し、人を救う仁愛の気持ち、すなわちLOVEがなければ裁判は理想的であり得ない」
 正義と識別と仁愛の三つが揃わなければ、裁判はできない。裁判だけではなく、人間そのものも完成されない。
 穂積先生は、浦和高校の生徒たちに強く訴えて、
「諸君。高等学校を終えて大学に来ると、法律、理学、医学というように、それぞれ専門の道に進まれますが、根本が充分にできていないと、ただの機械になってしまう。人間がただの機械になってはいけないのであります」
「大学の専門に行くと器物になりやすい。ややもすれば道具になり、機械になりやすいから、その根本をつくるのが高等学校の教育であります」
「諸君の心を悩ますことは大学の入学試験であるかもしれません。しかしながら、そんなことに心を悩ましていては、せっかくの高等学校が乾燥無味なものになると思います」
「高等学校で本当に人物を作り、見識を養うことが諸君をして赤門をくぐらせる所以であります」
 当時、穂積先生は、東京大学法学部長なので、大学という代わりに赤門(東京大学)と表現している。
 講演の最後に、「今日の世の中では、目的と手段の関係がうまくいっていない。目的のために手段を選ばずという考えは非常に間違った考えだ。教育は手段ではない。本当に人物を磨いて一人前になることが必要で、今日を立派に活きうること、学問そのものに興味を持って勉強することが諸君の本務だ」とくりかえし強調している。この考え方は、現在の浦和高校にも通底している。過去から現在まで、浦和高校から多くの人物が出ていることは必然であった。
 正義、識別、仁愛の揃った人物になるために、己を磨くことが根本である。

学院長 筒井保明