競技としてのそろばん

 毎年、8月8日「そろばんの日」に全国珠算教育連盟主催の全日本珠算選手権大会が開催されます。そろばん日本一を決定する個人総合競技をはじめとして、各種目別競技に全国の選手たちがチャレンジします。
 柔道や剣道や空手などの武道から、さまざまなスポーツ、また、ゲームや暗記や早食いにも競技がありますから、競技としてのそろばんにもまったく違和感はないでしょう。むしろ、そろばんは計算速度の世界でもありますから、F1やインディカーのレースのように、熟達者は、自然と、そろばんの正確さと速度を競いたくなるではないでしょうか。だからこそ、おなじように、ゲームにも、暗記にも、早食いや大食いにも、競技が成立するのです。
 NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、藍商人の息子であった渋沢栄一もそろばんの熟達者でしたから、きっと誰よりも速く計算できることに快感を覚えていたはずです。じつは、ゆっくりとそろばんを操作するよりも、できるだけ速くそろばんを操作するほうが、気持ちもいいし、計算にもまちがいが少ないのです。あわてることはだめですが、どんなに速くても、そろばんの操作が快活であれば、計算は正確になります。
 わたしは、残念ながら、「青天を衝け」を見ていないのですが、毎週、欠かさずに見ている教師から、「藍の買い付けなどでは、当然、算盤が出てきましたが、一橋家の重要な場面でも算盤が出てきましたよ」という報告を受けています。
 慶喜に対して、「武士とて、金は入り用。それがしは一橋家の懐具合を整えたいのです」といって、算盤をバンと取り出し、「ふところを豊かにし、その土台を頑丈にする。軍事よりはむしろ、そのような御用こそ、おのれの長所でございます」と断言した場面のようです。
 江戸時代は、その末期といえども、儒学が国教として生きていました。中国の思想家である孔子(紀元前552年―紀元前479年)の教えを編集した『論語』がその中心です。
 「孔子は、理財(経済)を説いていないのではないか」という疑問に対して、渋沢栄一は、断固として否定し、「孔子が理財(経済)を理解していたことはまちがいない」と主張しています。だからこそ、「算盤は論語によってできている」と明言できたのです。
 上記の慶喜との対面の場面に登場したそろばんは、もちろん論語によってできているそろばんでしょう。徳川家康の再来といわれた徳川慶喜が『論語』を熟知していないはずがありません。論語算盤説を信念とする渋沢栄一は少年時代から「片手に論語、片手に算盤」です。渋沢の言葉は、慶喜の胸にも強く響いたはずです。
 平和な時代であれば、競技としてのそろばんを渋沢栄一は支持したであろうし、むしろ「渋沢栄一杯」などの大会を主催したかもしれません。なにしろ「国民が算盤を忘れたら、国が滅亡してしまう」という言葉を残しているくらいです。渋沢にとって、儒学(論語)と同等に、算盤は重要なものでした。「片手に論語、片手に算盤」で、はじめてバランスがとれるのです。
 大河ドラマが大評判になったあかつきには、「渋沢栄一杯」というような、そろばんの競技大会が開かれるかもしれませんね。

山手学院 学院長 筒井保明