声を出して、学ぼう!
Learn Out Loud!
ひとは、自分の声で学ぶ。幼児は、母親をはじめとして、身近な人たちの声や口の形をまねて、自分の声を出すことによって言葉を身につける。そうして身につけた言葉のことを「母語」という。言葉の最初は、文字ではなく、音声なのだ。
自然の流れに沿えば、日本語も、英語も、中国語も、ロシア語も、どんな言語も、身につける過程はおなじ。聞く(耳・リスニング)→話す(口・スピーキング)→読む(目・リーディング)→書く(手・ライティング)の順。英語学習では、四技能というけれど、「聞く」「話す」が先であり、「読む」「書く」が後である。
ところが、日本の学習者の多くが、「聞く」「話す」をおざなりにしてしまう。これまでの学校の英語学習も、「読む」「書く」に重点が置かれていた。だから、どうしても「聞く」「話す」が苦手になる。
そもそも、ほとんどの学習の基本が「聞く」「話す」なのだが、おそらく紙のテストのために、英語だけでなく、どの教科も「読む」「書く」に力が注がれてしまう。
でも、よく考えてみれば、記録という手段が乏しかった時代、わたしたちの先祖たちは、「口承」といって、「聞く」「覚える」「話す」で、説話や文化を語り継いできた。孔子の言行を語り継いでまとめたものが『論語』になり、イエスの言行を語り継いでまとめたものが『福音書』になり、ゴータマ・シッダルタの言行を語り継いでまとめたものが数多くの仏教経典になった。ほとんどの仏典の冒頭が「如是我聞」(わたしは、このように聞いています)で始まることからも、「聞く」ことが最初であることがわかるだろう。
まず、しっかりと聞くこと! これが君たちの学習の第一歩である。
つぎは「話す」であるが、「話す」ためには前段階として「聞いたことをまねる」練習が必要になる。幼児を観察すればわかるように、ひとには「聞いたことをまねる」能力が備わっている。だからこそ、幼児は身近な人の発語をまねながら、言葉の数を増やしていくことができる。言葉は、自分の声を通すことによって身につくものだから、新しい言葉は、国語であっても、英語であっても、社会や理科の用語であっても、しっかりと自分の声で発語することが必要だ。一度も自分の声で発語したことのない言葉は、なかなか使える言葉にならない。
もし君が国語や英語を苦手にしているなら、君は自分の声を出して学習しなければならない。
小学生にとって、「読み聞かせ」「音読」「読書」は、学習のかなめになる。中学生であっても、「音読」は有効な学習法だ。脳の聴覚野(耳)や視覚野(目)に入った言語は、パッシブな情報として、ひとまず脳のウェルニッケ野に集められる。この情報を表現するためには、ウェルニッケ野の情報を脳のブローカ野に移動し、脳の感覚野・運動野を使い、口や舌を動かして、アクティブな情報として、発語する必要がある。「音読」とは、この一連の操作だ。
さらに、音読するためには、いま、声に出している文字や言葉よりも、その先にある文字や言葉を意識しなければならない。つまり、予測しなければならない。「予測」は、聞くためにも、話すためにも、読むためにも、書くためにも、そして、生きるためにも、必要なことだ。「音読」という学習は、この「予測」を身につける学習になる。
国語の「聞き取り」や英語の「リスニング」が苦手な生徒は、次に来る音や言葉を予測する練習ができていない。もちろん、「予測」は、しばしば、外れる。そして、外れてもかまわない。ひとは外れた予測を修正しながら学ぶからだ。
自分の声を出して学ぶことは、君の能力を大きく育てる方法である。
山手学院 学院長 筒井 保明