(教科書の全体をおおまかにつかんでおくこと)
まず意志を持つこと
新型コロナウイルスが広がることによって、世界中が混乱しています。
学校の休校や図書館の休館が続き、もしかしたら君たちの学習も止まっているかもしれません。テレビやゲームやYouTubeの動画などにたくさんの時間を費やしていませんか? 残念ながら、どれも君たちにとっては気楽に見たリ、プレイしたりできる、君たちが受け身になるメディアですから、君たちの学力や能力をほとんど高めることはありません。
学習でも、スポーツでも、芸術でも、取り組むためには自分の意志が必要です。
Where there’s a will there’s a way. (意志があるところに、道・方法がある)という英語のことわざのとおりで、「やりたい、やるぞ」という意志があるから、進む道があり、達成する方法があるわけです。
君たちの学力や能力を高めるものは、最初に君たちの意志を求めます。
学習でも、スポーツでも、芸術でも、君たちがすすんで能動的に取り組むとき、君たちの学力や能力は高まるのです。
キーワードは、「自分の声」と「全体」
さて、何人かの小学生や中学生から、「教科書が手に入りました。どうしたらいいでしょうか?」という質問がありました。
図書館が閉まっていて本が借りられない状態ですから、目の前の教科書を使う(過年度の教科書でも、新年度の教科書でもかまいません)、とっておきの学習方法を教えましょう。
この学習方法のキーワードは、「自分の声」と「全体」。
まず、人は、音声言語として、言語を身につけます。それも、聞くだけでは足りず、自分の声を発し、自分の声を自分で調整しながら、その言葉を自分のものにします。
ですから、国語が苦手な原因も、英語が苦手な原因も、専門的な用語が多い社会科や理科が苦手な原因も、多くの場合、自分の声を使用していないところにあるのです。(思い当たりませんか?)数学も言語ですから、もしかしたら数学が苦手な遠い原因も、おなじかもしれません。
そこで、自分の声のトレーニングとして、国語でも、社会でも、理科でも、英語でも、教科書を音読します。学ぼうと意識する必要はなく、楽しい読み物を軽く読むような感じで、教科書全体を最後までとおして音読してみましょう。
気をつけなければいけないのは、読めない文字(漢字でも英語でも専門用語でも)は、調べたり、聞いたりして、正しく読めるようにすること! まちがえておぼえてしまうと、あとで直すのに苦労します。
かつて日本の知性といわれた学者がベルリンの壁の崩壊を解説するとき、「本質的に、にんげんは、キジャクですからね」とくりかえしたことがあり、みんなが首をひねりました。横文字をまじえるクセのある学者でしたので、途中で「フラジャイル」と口走ったとき、「ああ、キジャクとは、脆弱(ぜいじゃく)のことか」と、はじめて合点がいきました。名前は伏せますが、日本を代表する知性でも、まちがえておぼえてしまうと、なかなか訂正できないものなのです。
まちがえておぼえないように気をつけながら、まず、音声として言葉をおぼえるようにしてください。もちろん、音声だけでは試験に通用しませんから、音声としておぼえた言葉や用語や英単語を、つぎは、書けるようにします。
「読めることが先。書けることが後」です。これは小学生でも中学生でも共通です。
先に全体に目をとおしておくと、きちんと理解することができる
つぎに、教科書を最後まで読んでしまうことです。
漢字や用語や英単語をまちがえずに読めるなら、おぼえようと意識しないで、国語や社会の教科書、また英語の教科書をまるまる音読・黙読してしまいましょう。学校が始まって、それぞれの教科を学習するとき、まちがいなく理解が速くなります。音読ですと、たしかに時間はかかりますが、自分の声を発して読んでおくだけでも、学校が始まったとき、その効果を実感することができるでしょう。先生の説明を自分の言葉として聞くことができるようになっているからです。(一冊全部に自信がない人は、とりあえず三分の一でも)
じつは、教科書をとおして読んでおくことには、もっと重要な効果があります。
むかしの考え方のまま、学習はレンガを積み上げるように「部分の積み上げ」であると思っている先生が多いのですが、これはまちがいです。たとえば、レンガで教会を作るとして、予想される教会の全体像が見えていないとしたら、はたして教会はできあがるでしょうか。
また、哲学であれば、アリストテレスでも、ニーチェでも、西田幾多郎でも、まず、だれかの一冊を最後まで読んで、おぼろげに全体像をつかみます。そうしてから、何度もくりかえして読みますと、書かれている内容が理解できるようになります。なぜなら、哲学者の頭のなかには思考の全体像(イメージ)があって、その全体像に対して思考(文)を組み上げていくからです。つまり、全体と部分が双方向に働きながら世界ができあがっていますので、一回、読んだだけではわからないのです。
よくできた教科書も、おなじです。教科書の編集作業は、その教科の全体像が先にあり、それぞれのページを集めて一冊の教科書に編集していきます。
ですから、全体をおおざっぱにつかんでから、こまかく学習していくほうが効果的なのです。
そもそも教科書はくりかえして読むように編集されています。参考書というのは、教科書を読むための参考ですから、「教科書をくりかえして読むこと」が先であり、基本です。
1学期に大きな飛躍をしよう!
「自分の声」と「全体」の意義がわかりましたか?
音読も、黙読も、教科書を読みとおすことも、君たちの意志がなければ、1ページもすすみません。ここに書いたことは、学校が始まって、実際の学習に取り組む前の、重要な下準備です。ぜひ、やってみてください。
ところで、もっと重要なことがあります。
受験生であれば志望校を持つことかもしれませんが、学習にも、スポーツにも、芸術にも、自分の目標が必要です。
君たちは、目標にむかって成長します。
目標がなければ、人は前に進むことができません。
もちろん、君たちの成長にしたがって目標も変化しますから、いまの自分が心から実現したいことであれば、どんなものでもいいのです。
君たちの意志があるところに、君たちが進む道があり、目標を達成する方法があります。
君たちの飛躍を期待しています。
情緒の知恵をきたえよう!
Emotional Intelligence Quotient
人は、パニックになったとき、思考力を失ってしまう。新コロナウイルスが引き起こしたパニックは、多くの人びとから、容易に考える力を奪っていった。その証拠の一つとして、しばらくのあいだ、消毒液やマスク、トイレットペーパーやティッシュペーパー、さらに非常用になる食品までが、わたしたちの前から消えた。自分や身内のことで心が占められたとき、人の行動は独善的になる。不必要な買い占めをした人びとは、視野がとても狭くなっていた。
困難なときこそ、知恵が必要だ。(「知恵」という漢字は「知識」knowledgeのほうに意味が近いので、できれば旧漢字で「智慧」wisdomと書きたいが、常用外なので「知恵」)
この場合の知恵は、IQ(知能指数Intelligence Quotient)ではなく、EQ(心の知能指数Emotional Intelligence Quotient)のことだ。
福沢諭吉をはじめとして、明治時代の日本人の造語力はとても高かったけれど、現代の日本人の造語力は高くない。ちなみに、中国語でIQは、智商、智力商数。EQは、情商、情緒智慧、情緒智商。
もし明治時代の日本人が訳語をつくったとすれば、IQは、智力商数、EQは、情緒智力商数、になったのではなかろうか。明治人にとって、「智力」と「情緒智力」のちがいは、人間的価値の重みを決める決定的なちがいであった。福沢諭吉にも、勝海舟にも、西郷隆盛にも、高橋是清にも、「情緒智力」があった。かれらの言動や著作物に触れると、かれらのEQの高さがわかる。
「智力」だけでは、「学習能力」にとどまってしまう。
「情緒」だけでは、「感応能力」にとどまってしまう。
「情緒智力」を発揮することによって、周りの人たちに影響を与えるような大きな仕事ができるのだ。
「情緒」は、やまとことばになおせば、「もののあわれ」である。
平安時代の昔から、「もののあわれ」が人の心の根本になければ、その人に生きがいはない。
生きがいは、人と人との関わりのなかで生まれるものである。だから、人のために涙を流せないような人や、もののあわれを感じることができない人に、生きがいはない。自分のことしか考えない人は、一人ぼっちで砂漠を旅するような人生を送ることになるだろう。
困ったときはお互い様だ。
世の中の助け合いや共生は、IQではできない。世の中の問題を解決するためにはEQが必要なのだ。
では、情緒智力(EQ)はどうやって高めたらいいのだろうか?
小学生も、中学生も、「物語」をたくさん読んで、積極的に世界に関わっていくことである。もともと「物語」を読むことの効用の大きな一つが「情緒の感応能力」を高めることである。
原始的な感情をつかさどっているのは脳の海馬に隣接する偏桃体で、ヘビを見てギャッと飛びのくのも、火事を見て慌てふためくのも、攻撃に対して怒りを燃え上がらせるのも、いらいらしたり、くよくよしたりするのも、偏桃体の働きだ。
ところが、「物語」を読んで感動しているときの情動は、偏桃体の働きではない。脳の前頭前野の眼窩前頭皮質が働いて、他者の心を理解したり、社会的な情動を起こしたりしているのだ。つまり、情緒智力が働いている。
「情緒」や「もののあわれ」は、原始的な感情ではなく、人間を人間らしくしている感情だ。
たくさんの物語を読んで、たくさんのことを体験して、未来をひらく情緒の知恵を身につけよう!
学院長 筒井保明
挑戦と失敗
Trial and Error
プログラミング教育が世界中で始まっている。日本でも遅ればせながら始まるけれど、うまくいくだろうか。
プログラミング教育に必要なのは、まず生徒一人ひとりの想像であるから、あらかじめ用意された答えにたどり着くような教え方では、生徒たちの能力は育たない。プログラミングの学習は、基本として自立的な学習であり、トライアルとエラーをくりかえしながら、自分で会得していくものだ。
小学校の教科でいえば、図画工作のデジタル版であるといってもいい。
この大前提に立って、授業が行われるならば、プログラミング教育はうまくいくだろう。
プログラミングは、21 世紀型スキルとして、生きていくために必要な教養であることはまちがいない。
文部科学省の「小学校プログラミング教育の手引き」の言葉を使えば、「論理的思考力」「創造性」「問題解決能力」「プログラミング的思考」を育成することがプログラミング教育のねらいであるけれど、もっ と率直に、「プロジェクトprojects、情熱passion、共有peers、プレイplay を通して、創造力creativityを養うこと」というMIT(マサチューセッツ工科大学)でスクラッチ開発グループを率いるミッチェル・レズニック博士の表現のほうが、プログラミング教育にはぴったりくる。
プログラミング教育の要は、創造力なのだ。なぜなら、想像を実際に働く形にするのが創造力であり、プログラミングは創造の方法であるからだ。
レズニック博士は、論理的思考とはいわず、創造的思考(creative thinking)という。その創造的思考を培う子ども用のアプリケーションやハイテク玩具がほとんどなかったので、ビジュアルプログラミング(スクラッチ)を開発したのだ。
文部科学省がプログラミング教育に採用しているのも、このビジュアルプログラミングである。また、手引きを読んでいてほっとしたのは、「試行錯誤」という言葉をくりかえして使っていたことである。日本の学校教育に不足していたのが、この「試行錯誤」であり、「まちがえないこと」を重視して、「まちがえること」を大切にしてこなかったことが、わたしたちの創造力を減退させたのかもしれない。
人は、記憶の原理として、まちがいを手引き(インデックス)にして学習するのであるから、「試行錯誤」の経験は学習そのものである。プログラミング学習では、自分が想像したプロジェクトを実現するために、なんども試行錯誤をくりかえすだろう。そして、その試行錯誤の過程で、論理を組み立てること、問題を解決すること、予期した結果を出すことなど、プログラミング教育のねらいが達成されるのである。
ところで、レズニック博士のスクラッチ開発グループの名前は「ライフロング・キンダーガルテン」(生涯続く幼稚園)という。名前の由来は、「急変する社会を生きぬくあらゆる年代の人々にとって、創造的能力を広げるためには、幼稚園スタイルの学習が求められる」ということだ。
幼稚園の開祖は、ドイツの教育学者フリードリッヒ・フレーベル(1782-1852)。レズニック博士の使う「創造力」という言葉は、フレーベルの教育方法の要でもある。フレーベルは、教室方式(講義方式)でなく、環境に働きかける遊びや作業を重視した。
プログラミング教育は、教室方式ではむずかしいかもしれない。スタートは一人ひとりの想像であり、その想像を一人ひとりが試行錯誤しながらプログラムするからだ。
創造力(モノをつくる力)は、挑戦と失敗によって、養われる。「試行錯誤」を恐れてはいけない!
※図は、Lifelong Kindergarten by Mitchel Resnick (The MIT Press 2017) より。
学院長 筒井保明
挑戦と失敗
Trial and Error
プログラミング教育が世界中で始まっている。日本でも遅ればせながら始まるけれど、うまくいくだろうか。
プログラミング教育に必要なのは、まず生徒一人ひとりの想像であるから、あらかじめ用意された答えにたどり着くような教え方では、生徒たちの能力は育たない。プログラミングの学習は、基本として自立的な学習であり、トライアルとエラーをくりかえしながら、自分で会得していくものだ。
小学校の教科でいえば、図画工作のデジタル版であるといってもいい。
この大前提に立って、授業が行われるならば、プログラミング教育はうまくいくだろう。
プログラミングは、21世紀型スキルとして、生きていくために必要な教養であることはまちがいない。
文部科学省の「小学校プログラミング教育の手引き」の言葉を使えば、「論理的思考力」「創造性」「問題解決能力」「プログラミング的思考」を育成することがプログラミング教育のねらいであるけれど、もっと率直に、「プロジェクトprojects、情熱passion、共有peers、プレイplayを通して、創造力creativityを養うこと」というMIT(マサチューセッツ工科大学)でスクラッチ開発グループを率いるミッチェル・レズニック博士の表現のほうが、プログラミング教育にはぴったりくる。
プログラミング教育の要は、創造力なのだ。なぜなら、想像を実際に働く形にするのが創造力であり、プログラミングは創造の方法であるからだ。
レズニック博士は、論理的思考とはいわず、創造的思考(creative thinking)という。その創造的思考を培う子ども用のアプリケーションやハイテク玩具がほとんどなかったので、ビジュアルプログラミング(スクラッチ)を開発したのだ。
文部科学省がプログラミング教育に採用しているのも、このビジュアルプログラミングである。また、手引きを読んでいてほっとしたのは、「試行錯誤」という言葉をくりかえして使っていたことである。日本の学校教育に不足していたのが、この「試行錯誤」であり、「まちがえないこと」を重視して、「まちがえること」を大切にしてこなかったことが、わたしたちの創造力を減退させたのかもしれない。
人は、記憶の原理として、まちがいを手引き(インデックス)にして学習するのであるから、「試行錯誤」の経験は学習そのものである。プログラミング学習では、自分が想像したプロジェクトを実現するために、なんども試行錯誤をくりかえすだろう。そして、その試行錯誤の過程で、論理を組み立てること、問題を解決すること、予期した結果を出すことなど、プログラミング教育のねらいが達成されるのである。
ところで、レズニック博士のスクラッチ開発グループの名前は「ライフロング・キンダーガルテン」(生涯続く幼稚園)という。名前の由来は、「急変する社会を生きぬくあらゆる年代の人々にとって、創造的能力を広げるためには、幼稚園スタイルの学習が求められる」ということだ。
幼稚園の開祖は、ドイツの教育学者フリードリッヒ・フレーベル(1782-1852)。レズニック博士の使う「創造力」という言葉は、フレーベルの教育方法の要でもある。フレーベルは、教室方式(講義方式)でなく、環境に働きかける遊びや作業を重視した。
プログラミング教育は、教室方式ではむずかしいかもしれない。スタートは一人ひとりの想像であり、その想像を一人ひとりが試行錯誤しながらプログラムするからだ。
創造力(モノをつくる力)は、挑戦と失敗によって、養われる。「試行錯誤」を恐れてはいけない!
※図は、Lifelong Kindergarten by Mitchel Resnick (The MIT Press 2017)より。
学院長 筒井保明
もっとすごい自分になる!
Be Your Better Self.
目の前に自信を失っている生徒がいたら、それがだれであっても、どんな状況であっても、無条件で「君はできるのだから、やってみよう」と励ます。「自分はできる」と信じれば、だれでもできるようになるからだ。
もちろん、効率的な学習習慣や効果的な学習方法など、具体的なことも教える。
けれども、「自分はできない」と思い込んでいるとき、どんな方法も役に立たない。思い込みの極端な例が強迫観念で、やる前から「できないとばかにされる。できないと叱られる」と恐れや不安を感じておびえてしまう。このとき、脳の偏桃体がネガティブな感情を増幅して、情報処理をつかさどる脳の海馬の働きを妨げるので、けっきょく学習することができない。
たとえば、アルプスの少女ハイジは、文字が読めなかった。令嬢クララの家庭教師が必死に学習を詰め込もうとしても、ハイジは学習を吸収することができなかった。なぜなら、羊飼いのペーターに「文字を読むことはできないよ」と何度も何度もいわれたので、「文字は読めない」という思い込みが根付いてしまっていたからだ。家庭教師も「この子には無理だ」と思いながら教えていた。
家庭教師から「ハイジは学ぶことができない子どもだ」と報告されたクララの祖母は、「ハイジはかならず読めるようになる」と反論した。
クララの祖母は、笑顔でハイジに近づくと、アルプスに関する絵本を手渡して、まず「読みたい」という気持ちをハイジから引き出した。そして、「読むことはできる」という確信をハイジに与えてから、読むことを教えた。すると、ハイジは、みるみるうちに本が読めるようになった。
ハイジの学習を妨げていた思い込みをメンタル・ブロックという。「自分はできない」という思い込みがメンタル・ブロックだ。
学習にかぎらず、スポーツでも、芸術でも、「自分はできない」というメンタル・ブロックが最大の障害物である。「できないこと」は、だれでもいやになる。いやになったら、やりたくなくなる。やりたくないことは、なかなかできるようにならない。遅かれ早かれ、多くの人たちが「できないこと」から逃げ出してしまう。
クララの祖母がすばらしい教育者であることは、最初に「読みたい」という気持ちをハイジから引き出したことでわかる。だれでも、やりたいことは、進んでやるだろう。この自発性が、学習のカギだ。
つぎに、「かならずできる」という確信を与えたことも重要だ。教師が「この生徒はかならずできる」という確信を持っていれば、目の前の生徒も「わたしはできる」と自然に確信できる。これは非言語的な要素なので、口先で「君はできるよ」といってもあまり効果はない。クララの家庭教師は「ハイジには無理だ」と思って教えているから、ハイジはできるようにならなかった。クララの祖母は「ハイジはできる」と確信しているから、ハイジはできるようになった。ハイジがメンタル・ブロックを外すことができたのは、クララの祖母の確信度のおかげである。
わたしたちは、君たち一人ひとりがかならずできるようになると確信している。
「もっとすごい自分になる!」(Be your better self.)というのは、新年度のテーマの一つだ。君たちは成長過程にあるので、君たちのベストはまだまだ未知である。現在の君より、未来の君はもっとすごい君であるはずだ。
「できる」という確信をもって、しっかり取り組んでいこう。
学院長 筒井保明
自分を尊重しよう!
Raise Your Self-Esteem!
教育の世界に、セルフ・エスティームという言葉がある。「自尊心」という訳語が当てられるけれど、「尊」という文字は正確な意味をあらわしていない。セルフ・エスティームとは「自分の価値を見積もる」ということだから、自分の価値を高く見積もるか、自分の価値を低く見積もるかで、言葉の意味が大きく変わってしまう。君たちに必要なのは、もちろん、高いセルフ・エスティーム(自尊心)である。
人生のさまざまな局面で、君たちは心ない言葉に傷つけられるだろう。
「こんなこともできないのか」
「ひどい成績だ」
「君の力では無理だ」
こういった否定的な言葉は、君たちに跳ね返す力がないと、君たちの自己イメージをどんどん低いものにしてしまう。やがて、君たちは、価値の低い自分になってしまうのだ。いいにくいことだけれど、「自分はだめだ」と思い込んだ小学生や中学生が、相対的によくない小学生や中学生になって周囲を困らせるようになる。本当は、だめな小学生や中学生など存在しないのに!
まず、大前提としていえるのは、君たちの存在そのものが絶対的な価値であるということだ。お釈迦様なら、「天上天下唯我独尊」(自分には絶対的な価値がある)というだろう。
そもそも世界と君たちは不可分であるから、君たちの価値が上がれば、その分、世界はよくなるだろうし、君たちの価値が下がれば、その分、世界はわるくなるだろう。「私たちが世界」We are the worldなのだ。
さて、君たちの存在が絶対的な価値である以上、誰かが発する、君たちを低める言葉を聞く必要はまったくない。君たち自身の考えで、君たち自身の価値を見積もればいい。
「ぼくにはかけがえのない高い価値がある」
「わたしにはかけがえのない高い価値がある」
お釈迦様のように、自分を高く見積もればいい。
そして、おなじように、ほかの人たちの価値をきちんと認める。
そうすると、自然に否定的な言葉が出なくなる。なぜなら、ほかの人たちを低めるような発言は、必ず自分に跳ね返って自分自身を低めてしまうからだ。
人には同調能力があるので、君たちが高いセルフ・エスティームを維持していると、友だちも高いセルフ・エスティームを持つようになる。受験やスポーツや芸術など、さまざまな分野で高い実績を上げる学校やチームは、全体として、チームとして、環境として、セルフ・エスティームが高い。
もし「わたしたちはだめな生徒だ」「わたしたちには無理だ」というような低いセルフ・エスティームの人たちに出会ったら、君たちは自分を守らなければならない。残念ながら、低いセルフ・エスティームの人たちには、君たちのセルフ・エスティームを低める危険がある。
そんなときは、いつでも自分の目標をしっかりと確認することだ。
目標を達成している自己イメージを思い描き、自分自身を強く信じるかぎり、君たちは負けない。
君たちには絶対的な価値がある。
自分を信じて、勇気をもって目標に向かっていこう。
学院長 筒井保明
君たちのもっといい未来
Your Better Future
2020年は、庚子(かのえ・ね)の年である。
江戸時代に書かれた『和漢暦原考』(石井光致)を見ると、『「庚」は、陰気が万物をあらためるので「更」であり、万物は粛然と更改する』とある。
また、『「子」は「滋」(繁殖・生長)「孳」(繁殖)であり、つとめて止まず、ますます増える』とある。
さらに『冬至の日(子月)に一陽が生じて万物が生じ始める』とある。陰陽の思想でいえば、冬至に陰が極まり、そこに新しい陽が生まれる。「子」は、始まりを表している。
十干十二支や陰暦で見ても、2020年の庚子とは、「あらゆることが根本から改まり、新しい年にますます発展していく」という意味になるので、文字どおりであれば、すばらしい一年になるはずだ。
では、子はどうして鼠なのか?
紀元前200年代の秦の時代の竹簡に「子、鼠也」と書かれているそうであるが、それはそう書かれているだけで理由を説明していない。
もし君たちが「子の字が表す、つとめて止まず、ますます増える動物は、なあに?」となぞなぞを投げられたなら、君たちはどんな動物を思い浮かべるだろうか?
当時の中国人は、たぶん、ネズミを思い浮かべた。
日本人も同じだろう。その証拠に、和算に鼠算というものがある。
正月に、ネズミの父母が子を12匹生む。親と合わせて14匹。このネズミたちが一組の父母になって、2月に12匹ずつ生む。合計で98匹。このように、親も子も孫も曽孫も、毎月、12匹ずつ子ネズミを生むと、12月には合計で何匹になるだろうか?
ちょっと計算してみよう。答えは、2×712 = 27,682,574,402で、276億8257万4402匹。つまり、ネズミたちは、つとめて止まず、ますます増えるのだ。
『和漢暦原考』には、十二支に当てられた動物たちの根拠と思われることも書いてあるが、もしかしたら私の想像のほうが当たっているかもしれない。
いずれにせよ、庚子の2020年は、改革の時であり、発展の時を意味する。
さて、このおめでたい年のはじめ、君たちの抱負は、どんなものだろうか?
抱負はどんなに大きくてもかまわない。抱負の意味は、「大志」であり、「理想」だ。だから、途方もなく壮大なものであってもいい。
抱負や目標を考えるとき、方法や手段を考える必要はない。なぜなら、方法や手段は、抱負や目標が決まった後に、生まれてくるものだからだ。
まず自分にとって重要なことを抱負や目標にしよう。
そして、その抱負や目標を達成している自分を思い浮かべてみよう。
晴れやかな笑顔の自分が思い浮かんだなら、さっそく、その抱負や目標に向かって走り出せばよい。走り出すと、やることや手段や方法が次々とあらわれてくるはずだ。
子の年は、万物のスタートだ。これから、君たちの毎日はもっといい未来になる。
希望をもって、自分の目標に向かっていこう!
学院長 筒井保明
わたしはわたし。君は君。
I am what I am. You are what you are.
学習するときにも、練習するときにも、目標を決めるときにも、まず「自分であること」が重要だ。
教育の世界では「個の確立」というのだけれど、いいかえれば「わたしはわたし。君は君」ということである。詩人の金子みすゞの言葉を借りれば、「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」ということだ。
人は、小さなことにこだわる人ほど、他人と自分を比較する。ほんとうは優劣などないのに、うぬぼれてみたり、がっかりしてみたりする。自分には自分の目標があるし、他人には他人の目標がある。目標が重なれば、そこに競争が生まれることがあるけれど、それでもそこに優越感や劣等感を生じさせてはいけない。自分は自分でしかないし、自分は他人にはなれないのだから、自分をかえりみるときは「わたしはわたし」なのだ。他人に自分の行動や感情を振り回されると、君は、自分からも、自分の目標からも、はるかに遠ざかってしまう。
禅宗で使われる公案に「拈華微笑」という話がある。
「インドの霊鷲山で、お釈迦様が花をひねって、みんなに見せた。このとき、みんなは沈黙してしまった。ひとり迦葉尊者だけ顔をほころばせて微笑した。お釈迦様は、わたしには正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相など、微妙の法門があるから、不立文字、教外別伝で、これを迦葉に授けよう、といった」
解釈すれば、「真理を見る目、苦悩のない心、空の世界という法門は、非言語的なもので、以心伝心である。お釈迦様が花をひねったとき、ほほ笑んだ迦葉には、この法門を授かる資格がある。沈黙したみんなは、お釈迦様が花をひねった意味を悟れなかったので失格である」ということだろう。
この公案に対して、「悟りは言葉にできない。お釈迦様が花をひねった意味がわからなかった。わたしは失格だ」と劣等感を抱いた弟子がいたとすれば、それは比較の罠に落ちているのだ。あくまで「彼は彼、わたしはわたし」である。
無門慧開(1183-1260)は、この公案に屈せず、
「黄色の顔のゴータマ(お釈迦様の姓)め。人もなげに、良い人たちをばかにして、羊頭をかかげて狗肉を売っているようなものだ。(看板に偽りありで)なにかましなことがあるか。もし、みんなが笑ったとしたら、いったいどうしたのだ? 迦葉も笑わなかったとしたら、いったいどうしたのだ? もし法に伝授ということがあるなら、人をたぶらかしている。もし伝授ということがないなら、迦葉に授けることなどできるのか?」
仏教の考え方でいえば、「諸行無常(あらゆる現象は無常である)、諸法無我(あらゆる事象は無我である)」であるから、そもそもお釈迦様が迦葉だけを選んで教えるはずがない。法は、その場にいる全員に開かれている。
どのような場面でも、「わたしはわたし。君は君」である。ドライな感じがするかもしれないが、人生の選択の基本は自分だ。いつも付和雷同(安易に他の説に同調したり賛成したりすること)するような人は、やがて自分を失ってしまうだろう。
受験生のみんなは、お互いに励ましあえばよい。一人ひとりが受験生であり、それぞれの目標を持ち、自分のベストを尽くしている。みんなちがって、みんないい。
学院長 筒井保明
人生の選択
Life Choice
人生とはなにか。
人はどのように生きるべきか。
その人の信念や価値観や原則をひとくくりにした理論のことをその人の哲学という。
たとえば、ソクラテスにも、プラトンにも、ナポレオンにも、勝海舟にも、吉田茂にも、その人自身の哲学があった。
おなじように、君たち一人ひとりにも、君たち自身の哲学がある。
人は生きているかぎり、じつは、自分の哲学を生きているのだ。
「哲学」という言葉は、明治時代のはじめに、西周という学者が、フィロソフィアという原語を訳したものである。フィロソフィアは、自然や人生の根本原理を求めることであった。つまり、すべての学問やあらゆる行動の根底にあるものだ。
もし、ある場面に直面したとき、君が「なにもやらない」哲学を持っていたなら、君は「なにもやらない」考え方をするだろう。
君が「なにもやらない」考え方をすると、君は「なにもやらない」行動にでるだろう。
つまり、君は、どんな場面でも、なにもやらない。
なにかに突き当たったとき、「なにもやらない」君は、これまでの人生で「なにもやらない」哲学を自分のなかに培ってしまっている。受験生として目の前の学習に取り組まなければならないとき、積極的に取り組むことができないのだとしたら、その原因は「なにもやらない」哲学にある。
そんな自分がいやなら、君は、まず自分の哲学を変えなければならない。
君が自分の哲学を変えれば、君は自分の考え方を変えることができる。
自分の考え方を変えれば、君は自分の態度を変えることができる。
自分の態度を変えれば、君は習慣を変えることができる。
そして、習慣を変えれば、君は具体的な行動を起こすことができるようになる。
このとき、必要なのは、君自身の目標だ。
目標を達成したいと願うとき、君は、どんな哲学を持つべきなのだろうか?
「自助努力の哲学」a self-help philosophy「自分自身でやれ哲学」a do-it-yourself philosophy
「いますぐやれ哲学」a do-it-right-now philosophy「手遅れだ(全力で早くやれ)哲学」a it’s already-too-late philosophy・・・
これは、公民権運動で大きく揺れていたアメリカのオハイオ州で、ある黒人指導者が仲間を励ましたときの言葉である。
「誰かを待っているんじゃない」「自分でやるんだ」「いますぐやるんだ」「手遅れになるぞ」「君に必要なのは、自分で行動する哲学なんだ」
どれも、目標を達成するために必要な哲学であろう。
君が「自分でやる」「いますぐやる」という小さな決断を実行していると、やがて変化が起こる。
「自分でやる」「いますぐやる」という小さな決断が、君の人生を大きく変えていくのだ。
君の人生にとって、重要な決断のことを「人生の選択」life choiceという。
志望校や受験校も人生の選択であるが、もっと重要なのは、目標に向かって「自分でやる」
「いますぐやる」という君自身の哲学なのだ。
学院長 筒井保明
積極的に取り組もう!
Positive Discipline
おなじことに取り組む場合でも、「自分でやる」と「だれかにやらされる」は、決定的にちがう。
根本的なことをいえば、「自分でやる」は積極的な訓練であるが、「だれかにやらされる」は消極的な訓練である。自分でやる訓練の結果は良くても悪くても自己責任であるが、だれかにやらされる訓練の結果は賞罰をともなうだろう。とくに罰をともなう場合は、行動の動機が「恐怖」であるから、ブレーキレバーを握りながら自転車に乗るようなものである。とても効率が悪い。
わたしがたまたま目にしたロシア人が書いた教育法の入門書には、「授業前に生徒をリラックスさせること。そして、生徒が学びたい状態で授業を受けられるようにすること」と書いてあった。
教育カウンセリングでは、「やりたい状態」want to と「やらねばならない状態」have to (should) に分ける。「やりたい状態」を子どもの特性、「やらねばならない状態」を大人の特性とする。
子どもが「やりたい状態」であれば、とうぜん、自分から進んでやることになる。そして、だれかが止めないかぎり、子どもは取り組みを続けるだろう。子どもの力が大きく伸びるのは、このときである。
ところが、子どもが「やらねばならない状態」であれば、子どもの本音は「やりたくない」である。だから、なんとかして、「やらないでいい状態」をつくろうとする。子どもは全力で創造的回避を試みる。たとえば、頭痛がしてきたり、お腹が痛くなってきたり、テキストが消えてみたり、親や先生に反抗してみたり・・・。
さて、君が学習に取り組むとき、君は「自分でやる」であろうか、それとも、「だれかにやらされる」であろうか。
自分でやっているかぎり、その取り組みはすべて君の成長につながる。自分を信じて、ひたすら目標に向かって進んでいけばよい。学習だけでなく、スポーツでも、芸術でも、さまざまな世界の達成者の原動力は、「自分でやる」である。だから、君が、学習に対して「自分の意志でやっている」といえるなら、安心だ。
いっぽう、君が「だれかにやらされている」とずっと感じているなら、危険である。君の本音は「こんなこと、やっていられない。なんとかして、やらないでおこう」であるから、自然に、君の目の前にさまざまな厄介ごとが生じてくる。
机の上のコップがひっくり返って、ジュースがこぼれた。うしろに背をそらせたとたん、椅子ごと、ひっくり返った。テキストを見ているうちに、だんだんと頭痛がひどくなってきた。お腹の調子がわるくなって、なんどもトイレにいった。となりで本を読む弟をじゃまして、弟とケンカになった。きのう買ったマンガをがまんできないほど読みたくなった・・・。
君は、どうしても学習に集中することができない。
君はあせる。またお父さんにきつく叱られるぞ!
じつのところ、これらの厄介ごとは、君の創造的回避が生み出している。君が「だれかにやらされている」と感じているかぎり、君は無意識に「できない状態」をつくりだしてしまう。あまりにもったいない時間ではないか。
でも、解決の方法はある。
「自分でやる」という積極的な訓練を自分に与えることだ。
しばらくのあいだ、学習に取り組む直前に、「やるぞ!」と自分に気合を入れることを続けてみよう。
学院長 筒井保明