Archive List for 学院長

学院長からのメッセージ 2019 November

わたしはわたし。君は君。 I am what I am. You are what you are.  学習するときにも、練習するときにも、目標を決めるときにも、まず「自分であること」が重要だ。  教育の世界では「個の確立」というのだけれど、いいかえれば「わたしはわたし。君は君」ということである。詩人の金子みすゞの言葉を借りれば、「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」ということだ。  人は、小さなことにこだわる人ほど、他人と自分を比較する。ほんとうは優劣などないのに、うぬぼれてみたり、がっかりしてみたりする。自分には自分の目標があるし、他人には他人の目標がある。目標が重なれば、そこに競争が生まれることがあるけれど、それでもそこに優越感や劣等感を生じさせてはいけない。自分は自分でしかないし、自分は他人にはなれないのだから、自分をかえりみるときは「わたしはわたし」なのだ。他人に自分の行動や感情を振り回されると、君は、自分からも、自分の目標からも、はるかに遠ざかってしまう。  禅宗で使われる公案に「拈華微笑」という話がある。  「インドの霊鷲山で、お釈迦様が花をひねって、みんなに見せた。このとき、みんなは沈黙してしまった。ひとり迦葉尊者だけ顔をほころばせて微笑した。お釈迦様は、わたしには正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相など、微妙の法門があるから、不立文字、教外別伝で、これを迦葉に授けよう、といった」  解釈すれば、「真理を見る目、苦悩のない心、空の世界という法門は、非言語的なもので、以心伝心である。お釈迦様が花をひねったとき、ほほ笑んだ迦葉には、この法門を授かる資格がある。沈黙したみんなは、お釈迦様が花をひねった意味を悟れなかったので失格である」ということだろう。  この公案に対して、「悟りは言葉にできない。お釈迦様が花をひねった意味がわからなかった。わたしは失格だ」と劣等感を抱いた弟子がいたとすれば、それは比較の罠に落ちているのだ。あくまで「彼は彼、わたしはわたし」である。  無門慧開(1183-1260)は、この公案に屈せず、  「黄色の顔のゴータマ(お釈迦様の姓)め。人もなげに、良い人たちをばかにして、羊頭をかかげて狗肉を売っているようなものだ。(看板に偽りありで)なにかましなことがあるか。もし、みんなが笑ったとしたら、いったいどうしたのだ? 迦葉も笑わなかったとしたら、いったいどうしたのだ? もし法に伝授ということがあるなら、人をたぶらかしている。もし伝授ということがないなら、迦葉に授けることなどできるのか?」  仏教の考え方でいえば、「諸行無常(あらゆる現象は無常である)、諸法無我(あらゆる事象は無我である)」であるから、そもそもお釈迦様が迦葉だけを選んで教えるはずがない。法は、その場にいる全員に開かれている。  どのような場面でも、「わたしはわたし。君は君」である。ドライな感じがするかもしれないが、人生の選択の基本は自分だ。いつも付和雷同(安易に他の説に同調したり賛成したりすること)するような人は、やがて自分を失ってしまうだろう。  受験生のみんなは、お互いに励ましあえばよい。一人ひとりが受験生であり、それぞれの目標を持ち、自分のベストを尽くしている。みんなちがって、みんないい。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 October

人生の選択 Life Choice  人生とはなにか。  人はどのように生きるべきか。  その人の信念や価値観や原則をひとくくりにした理論のことをその人の哲学という。  たとえば、ソクラテスにも、プラトンにも、ナポレオンにも、勝海舟にも、吉田茂にも、その人自身の哲学があった。  おなじように、君たち一人ひとりにも、君たち自身の哲学がある。  人は生きているかぎり、じつは、自分の哲学を生きているのだ。  「哲学」という言葉は、明治時代のはじめに、西周という学者が、フィロソフィアという原語を訳したものである。フィロソフィアは、自然や人生の根本原理を求めることであった。つまり、すべての学問やあらゆる行動の根底にあるものだ。  もし、ある場面に直面したとき、君が「なにもやらない」哲学を持っていたなら、君は「なにもやらない」考え方をするだろう。  君が「なにもやらない」考え方をすると、君は「なにもやらない」行動にでるだろう。  つまり、君は、どんな場面でも、なにもやらない。  なにかに突き当たったとき、「なにもやらない」君は、これまでの人生で「なにもやらない」哲学を自分のなかに培ってしまっている。受験生として目の前の学習に取り組まなければならないとき、積極的に取り組むことができないのだとしたら、その原因は「なにもやらない」哲学にある。  そんな自分がいやなら、君は、まず自分の哲学を変えなければならない。  君が自分の哲学を変えれば、君は自分の考え方を変えることができる。  自分の考え方を変えれば、君は自分の態度を変えることができる。  自分の態度を変えれば、君は習慣を変えることができる。  そして、習慣を変えれば、君は具体的な行動を起こすことができるようになる。  このとき、必要なのは、君自身の目標だ。  目標を達成したいと願うとき、君は、どんな哲学を持つべきなのだろうか?  「自助努力の哲学」a self-help philosophy「自分自身でやれ哲学」a do-it-yourself philosophy 「いますぐやれ哲学」a do-it-right-now philosophy「手遅れだ(全力で早くやれ)哲学」a it's already-too-late philosophy・・・  これは、公民権運動で大きく揺れていたアメリカのオハイオ州で、ある黒人指導者が仲間を励ましたときの言葉である。 「誰かを待っているんじゃない」「自分でやるんだ」「いますぐやるんだ」「手遅れになるぞ」「君に必要なのは、自分で行動する哲学なんだ」  どれも、目標を達成するために必要な哲学であろう。  君が「自分でやる」「いますぐやる」という小さな決断を実行していると、やがて変化が起こる。  「自分でやる」「いますぐやる」という小さな決断が、君の人生を大きく変えていくのだ。  君の人生にとって、重要な決断のことを「人生の選択」life choiceという。  志望校や受験校も人生の選択であるが、もっと重要なのは、目標に向かって「自分でやる」 「いますぐやる」という君自身の哲学なのだ。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 September

積極的に取り組もう! Positive Discipline  おなじことに取り組む場合でも、「自分でやる」と「だれかにやらされる」は、決定的にちがう。  根本的なことをいえば、「自分でやる」は積極的な訓練であるが、「だれかにやらされる」は消極的な訓練である。自分でやる訓練の結果は良くても悪くても自己責任であるが、だれかにやらされる訓練の結果は賞罰をともなうだろう。とくに罰をともなう場合は、行動の動機が「恐怖」であるから、ブレーキレバーを握りながら自転車に乗るようなものである。とても効率が悪い。  わたしがたまたま目にしたロシア人が書いた教育法の入門書には、「授業前に生徒をリラックスさせること。そして、生徒が学びたい状態で授業を受けられるようにすること」と書いてあった。  教育カウンセリングでは、「やりたい状態」want to と「やらねばならない状態」have to (should) に分ける。「やりたい状態」を子どもの特性、「やらねばならない状態」を大人の特性とする。  子どもが「やりたい状態」であれば、とうぜん、自分から進んでやることになる。そして、だれかが止めないかぎり、子どもは取り組みを続けるだろう。子どもの力が大きく伸びるのは、このときである。  ところが、子どもが「やらねばならない状態」であれば、子どもの本音は「やりたくない」である。だから、なんとかして、「やらないでいい状態」をつくろうとする。子どもは全力で創造的回避を試みる。たとえば、頭痛がしてきたり、お腹が痛くなってきたり、テキストが消えてみたり、親や先生に反抗してみたり・・・。  さて、君が学習に取り組むとき、君は「自分でやる」であろうか、それとも、「だれかにやらされる」であろうか。  自分でやっているかぎり、その取り組みはすべて君の成長につながる。自分を信じて、ひたすら目標に向かって進んでいけばよい。学習だけでなく、スポーツでも、芸術でも、さまざまな世界の達成者の原動力は、「自分でやる」である。だから、君が、学習に対して「自分の意志でやっている」といえるなら、安心だ。  いっぽう、君が「だれかにやらされている」とずっと感じているなら、危険である。君の本音は「こんなこと、やっていられない。なんとかして、やらないでおこう」であるから、自然に、君の目の前にさまざまな厄介ごとが生じてくる。  机の上のコップがひっくり返って、ジュースがこぼれた。うしろに背をそらせたとたん、椅子ごと、ひっくり返った。テキストを見ているうちに、だんだんと頭痛がひどくなってきた。お腹の調子がわるくなって、なんどもトイレにいった。となりで本を読む弟をじゃまして、弟とケンカになった。きのう買ったマンガをがまんできないほど読みたくなった・・・。  君は、どうしても学習に集中することができない。  君はあせる。またお父さんにきつく叱られるぞ!  じつのところ、これらの厄介ごとは、君の創造的回避が生み出している。君が「だれかにやらされている」と感じているかぎり、君は無意識に「できない状態」をつくりだしてしまう。あまりにもったいない時間ではないか。  でも、解決の方法はある。  「自分でやる」という積極的な訓練を自分に与えることだ。  しばらくのあいだ、学習に取り組む直前に、「やるぞ!」と自分に気合を入れることを続けてみよう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 July

夢は実現する Dreams come true!  七夕の夜、君も、願いごとを書いた短冊を笹の葉につるしただろうか。  短冊に書かれた願いごとは、それが本気の目標であり、君の良心に反しない希望であるならば、きっと実現するだろう。なぜなら、君が信ずるかぎり、夢は実現するものだからだ。  では、「夢は実現する!」を科学的に解説してみよう。  そもそも夢とは「君が実現したいこと」である。  本気で「実現したい」と思うと、行動を促すホルモンであるドーパミンが君の脳の前頭前野まで届き、君は行動を起こすことになる。つまり、「君の夢」は、行動のモチベーションなのだ。  つぎに「実現したいこと」に関連する情報が、どんどん君のなかに飛び込んでくる。情報の取捨選択は、君の関心によって決定される。君が関心を持っていることは、あちこちから君の目や耳に入ってくるけれど、君が関心を持っていないことは目の前にあっても馬耳東風で君を素通りしていくだけだ。「実現したいこと」があると、それを達成するために必要なことがわかってくる。ものごとは、目標が先で、手段は後から見つかる。これも脳の働きの一つ。  さらに「実現したいこと」につながる取り組みは、すべて君にとって「やりたいこと」になる。「やりたいこと」をやるとき、君の脳の海馬や前頭前野が活性化して、スムーズに取り組みを進められる。そして、君は自分が満足するまで取り組みを続けられる。  このように、毎日、自発的に、積極的に取り組んでいくことができれば、夢は実現するだろう。  ところが、君の夢の実現を妨げようとするものが、つぎつぎとあらわれる。  それが保護者であったり、先生であったり、友だちであったりすると、君は困惑してしまう。  教育学者のマリア・モンテッソーリは、「子どもの能力の発展を妨げているのは、ほかならぬ教師である」といった。「やさしい教師の、おせっかいな手出し、不必要な指導が、子どものやる気を削ぎ、自発的な取り組みを阻み、大きな成長の機会を失わせているのだ」と厳しく指弾した。  モンテッソーリが見た事実として、「子どもたちがなにかを取り囲んで、わいわい騒いでいた。その集団の後ろで小さな子どもが背伸びをしているが、のぞき込むことができない。そこで、その子どもは、その場所から離れ、椅子を運んできた。椅子の位置を決め、椅子の上に立って、その子どもは、ぐんと背を伸ばそうとした。そのとき、その子どもの行動に気づいた教師が、子どもをうしろから抱きかかえ、のぞき込める高さに持ち上げて、さあ、これで見えるでしょ、といった。自分の行動を中断されたときの、小さな子どもの、ざんねんな、がっかりした表情といったら!」  一つの秩序をつくろうとして、子どもは自分で取り組んでいた。しかし、教師のおせっかいが、取り組みを中断させ、秩序をつくる(学習する)喜びを子どもから奪ってしまった。思いやりのある教師でも、このようなまちがいを仕出かす。やがて、子どもは、自発的な取り組みをやめてしまう。  目標達成法のなかに、「自分の夢や目標を周囲に話してはいけない」という項目があるのは、この教師と似たような行動をとる人が多いからかもしれない。悪意の妨げは撃退するだけだが、善意の行為は防ぐことがむずかしい。もちろん、人の助けが必要なときもあるから、周囲の人には、 「助けが必要なときは、相談します。だから、自分一人でやっているときは、どうか見守っていてください」と頼んでおくといいだろう。  ともあれ、本気の夢は実現するものだ。さて、君の夢はなんだろうか? ※Dreams come true.と夢が複数であるのは、君の夢はいくつもあるはずだから。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 June

積極的な心と態度 Positive Thinking and Attitude  夏期講習のパンフレットの表紙の言葉を「成長の夏、実行の夏。自分の力を信じて積極的な心と態度で取り組もう!」とした。英語で「積極的な心の態度positive mental attitude」というので、「心の態度」も考えたが、「心と態度」に決めた。なぜなら、心の態度attitudeが変わると、行動の態度behaviorも変わるからだ。わたしたちが使う「態度」という言葉には、どちらの英語の意味も含まれている。  さて、君は、どんな夏を過ごそうと考えているだろうか?  わたしは、この夏が、君にとって「成長の夏、実行の夏」になることを願っている。  そして、「成長の夏、実行の夏」を実現するために、「自分の力を信じて、積極的な心と態度で取り組もう!」と君を強く励ましたい。  あとは、君が「やるぞ」と自分に気合を入れて、行動を起こせば、君自身でも信じられないような力がわき上がってくるだろう。  夏とは、そういう季節なのだ。この夏の特性を生かすことは、君にとって重要なことである。  今年は、山手学院の45周年にあたるため、いろいろな校舎の保護者会や公開講座で、山手学院の教務部の責任者や室長たちといっしょに入試分析や学習法や合格必勝法などを語っている。  おもしろく、楽しく聞いてもらうために、毎回、ポイントは変えているが、学習法自体はほとんど変わらない。(コロコロ変わったら身につけられない)  ところが、学習法などより先に、君たちは「生活習慣」を身につけなければいけない。  「生活習慣+学習=学力」というのが、わたしの主張である。  もし君が就寝前にテレビやパソコンやスマートフォンなどに時間を使っているようであれば、電子機器の光によってメラトニンの分泌が妨げられ睡眠が浅くなってしまう。そして、こわいことに、君の脳や体を成長させ、傷ついた細胞を修復し、疲労を回復させる成長ホルモンが分泌されなくなってしまう。朝、起きられない。体調がよくない。やる気が起きない。これでは、学習どころではないだろう。  さらに、睡眠前の記憶は、テレビやパソコンやスマートフォンなどの情報によって、壊れることがわかっている。だから、わたしは、「ご褒美テレビ」のような、学習後に別の情報をぶつけることのマイナスを説明し、さらに受験生を中心に、「就寝前は、電子機器の使用禁止。手短にまとめ学習をしてから、リラックスして積極的な気持ちで(できると信じて)ぐっすり眠る」を強く勧めている。  実際にやってみると、多くの生徒たちが、「朝、起きたとき、すべておぼえていました」「どんどんできるようになりました」「記憶が楽になりました」「短時間でできるようになりました」「学習に自信が持てました」などと、異口同音に報告してくれる。記憶と睡眠はセットであるから、当然である。  そして、かれらが報告してこない(気づかない)もっとすぐれた効果がある。それは、かれらが「積極的な心と態度」を強化していることだ。  睡眠時の脳波は、リラックス・浅い眠り・レム睡眠におけるアルファ波・シータ波から、深い眠り(熟睡状態)・ノンレム睡眠におけるデルタ波を往復する。このとき、記憶だけでなく、自己イメージも書き込まれる。いいかえれば、積極的な気持ちでぐっすり眠れば、積極的な気持ちで起きられるようになる。  なにごとも論より証拠だから、この夏のあいだ(今日からでもいい)、「自分の力を信じて積極的な気持ち」で就寝して、「積極的な気持ち」で、朝、起きてみよう。  きっとさまざまなことがうまくいくようになるだろう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 May

もっとも重要な時間 The most important time  「もっとも重要な時間The most important time」を英語で検索したら、アメリカの公民権運動を指導したキング牧師のテレビ・インタビューが表示された。  わたしとしては、ぜんぜん違うことを予期していたのだが、思わぬものがあらわれた。  キング牧師のインタビューを抄訳すると、 「いまが、自分の人生を決める重要な時だ。問題は、君が、本質的な、固い、健全な計画をもっているかどうか。君の計画に必要なもの、一つ目は、自分という威厳、自分という価値、自分という人物に対する深い信念だ。他人は関係ない。二つ目は、原則として、君が取り組む様々な分野で、すばらしさを達成する決意だ。あくまで自分がどうするか、自分で決めていく。樹になれないなら、茂みになれ。公道になれないなら、畦道になれ。太陽になれないなら、星になれ。サイズなんて、関係ない。君がなれるもので、ベストになれ。三つ目は、真善美の永遠の原則に従うことだ。いわゆる豊かな人生は、水晶の階段で、わたしたちのものじゃない。でも、わたしたちは、動き続けなければならない。進み続けなければならない。君が飛べないなら、走れ。君が走れないなら、歩け。君が歩けないなら、這え。なんとしてでも、動き続けろ」  水晶の階段crystal stairという言葉は、ラングストン・ヒューズという黒人の詩人の「母から子へ」のなかの一行「わたしにとって、人生は、水晶の階段じゃなかった」を踏まえている。ヒューズの詩もすばらしい。最後の連だけ訳すと、 「振り返っちゃいけない。つらくても、階段に腰を下ろしちゃいけない。いま、くじけちゃいけない。なぜなら、お母ちゃんだって、まだ進んでるんだ、かわいい子よ、お母ちゃんだって、まだ登っているんだ。わたしにとって、人生は、水晶の階段じゃなかったけどね」Mother to Son by Langston Hughes  水晶の階段は、階段の踏み板の表面に水晶が散りばめられていたり、階段の手すりが透明なクリスタルであったり、手すりを支える親柱や柱が水晶であったり、階段全体がキラキラしていたりするような、とても豪華な階段だ。この階段をのぼるのは、白人の富裕層にちがいない。  いっぽう、公民権運動で全米が揺れ動いていたとき、黒人たちは、鋲が出て、木の破片が散らばる、ボロボロになった板きれの、カーペットのない、むき出しのままの踏み板の階段をのぼり続けていた。そして、一つの踊場にたどり着くと、角を曲がって、また、ガタピシした階段をのぼり続けていたのだ。真っ暗闇に入りこんだことも一度や二度ではなかった。ヒューズの比喩を使ったけれど、黒人たちの苦難が想像できるだろうか。  苦難を前にして、キング牧師は、「自分の人生を決める重要な時だ」といった。  自分という威厳、自分という価値、自分という人物に対する深い信念は、すべての人にとって最初に必要なものである。  君も自分の目標に取り組むとき、まず、この信念があるかどうかを問うてみよう。  自分という威厳とは、容易に左右されない自分の態度のこと。  自分という価値とは、容易に左右されない自分の心のこと。  自分という人物とは、容易に左右されない自分自身のこと。  さあ、信念を持って、目標につながっている「自分の階段」をのぼっていこう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 April

友だちとともに学ぶ。 Learn in the company of friends.  アクティブ・ラーニングという言葉を聞いたことがあるだろう。  アクティブは能動的ということ。その対義語は、パッシブで受動的ということ。  脳の機能でいえば、「見るだけ・聞くだけ」の学習はパッシブで、自分の口や手を動かす学習はアクティブということになる。  パッシブな学習における学習内容の定着率は低く、アクティブな学習における学習内容の定着率は高い。だから、君たちは、積極的な態度で、自分の口や手を動かしながら、どんどん学習しよう。  さて、世界中で学習に関する仮説と検証が毎月のように発表される。研究というのは厳しいもので、その多くは、すでに研究され、結果が公表されているものを追認しているものばかりだ。本当に新しい研究というものは数少ない。  たとえば、「読書量が増えれば増えるほど、算数・数学が得意になる」という調査結果は、くりかえし発表されている。どの調査も「読書好きの子どもは、算数・数学が得意になる」という結果になっている。当然といえば当然で、読書は「言語という抽象概念」を読み取ることであり、算数・数学は「数字や記号という抽象概念」を操作することであるから、脳の働きとしてはほぼ同じなのである。読書に秀でることは、算数・数学に秀でることに通じるのだ。  もしかしたら、君たちのなかに、「ぼくは理系」とか「わたしは文系」とか、なんとなく教科の好き嫌いで自分を規定している生徒がいるかもしれないけれど、人の能力として「理系」とか「文系」という性質はない。能力ではなく、じつは「好き嫌い」である。  その証拠に、20世紀最大の知性といわれたポール・ヴァレリーというフランスの詩人は、生涯にわたって数学に取り組んでいたし、人工知能の父といわれたマーヴィン・ミンスキーというアメリカの科学者の文章はすばらしい。こういう人たちの業績に接すると、「理系」とか「文系」という性質が存在しないことがわかる。『ファウスト』や『若きウェルテルの悩み』で有名なゲーテは、19世紀の最高の詩人であり、劇作家であり、色彩論、形態学、生物学、地質学を研究した科学者であり、さらに政治家であった。どこに「理系」と「文系」が存在するだろう?  「理系」と主張する君。もしかしたら、音読・読書を怠ってしまって、読書をさぼっているだけではないか?  「文系」と主張する君。もしかしたら、計算練習を怠ってしまって、算数・数学を毛嫌いしているだけではないか?  「理系」が好きな君は、たくさん読書することによって、もっと理系教科・科目のことが理解できるようになる。  「文系」が好きな君は、算数・数学に取り組むことによって、もっと文系教科・科目のことが理解できるようになる。  どの教科・科目も、人の教養としてつながっているのだから、小学生・中学生は、どの教科・科目にもしっかりと取り組まなければならない。  君たちは、たくさんのことを学び、たくさんのことを身につけているうちに、やがて、友だちや仲間とそのことについて語り合ったり、論じ合ったり、教え合ったりしたくなるだろう。  本当のアクティブ・ラーニングは、この時点から始まるのだ。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 March

自分を選ぶ! Choose yourself!  人は自己イメージに従って行動する。  「できる」と思っている生徒は、できるように行動するし、「できない」と思っている生徒は、できないように行動してしまう。  だから、最初から「自分はできる」と決めて、あらゆることに取り組めばいいのだが、うまくいかない生徒も多いだろう。  「できる・できない」は、「積極的態度・消極的態度」といいかえてもいい。積極的態度で取り組むと、できるようになるし、消極的態度で取り組むと、なかなかできるようにならない。  君の態度が「積極的か・消極的か」ということは、君の人生を左右する本質的な問題である。  では、なにが君を積極的にし、なにが君を消極的にするのだろう?  答えは、君自身の選択だ。君が積極的な自分を選べば、積極的態度になり、君が消極的な自分を選べば、消極的態度になる。  君は、君自身が選んだ自己イメージどおりの君なのだ。    たとえば、有名な「ルビンの壺」の図柄を見てみよう。  最初はたんなる白黒の図柄である。しかし、見ているうちに「壺」を見た君は、この図柄から「壺」というイメージを選んだのであり、「向き合う人たち」を見た君は、「向き合う人たち」というイメージを選んだのである。  つぎの絵は、どうだろう。「老婆」を見た君は、「老婆」を選んだのであり、「若い女性」を見た君は、「若い女性」を選んだのである。専門的には「ゲシュタルト」というけれど、君の頭の中でつくられたイメージ(意味のある全体)が「老婆」になり、「若い女性」になる。そして、イメージを選択するのは、君だ。  これは視覚の例であるけれど、人はあらゆる現象に対して同じことをおこなう。  だから、君という複雑な存在に対して、君はいろいろな自分を選択して思い描くことができる。本来、君は積極的でも消極的でもない。そのままの君だ。  ところが、君は、自分のことを積極的だと思ったり、消極的だと思ったりする。つまり、そのままの君の中から、積極的な自分を選んだり、消極的な自分を選んだりしている。  そうだとしたら、自分の目標を達成したい君が実行することは、「積極的態度の自分」を選ぶことだ。積極的態度で「できる」と信じて取り組むならば、たいていのことはできる。  しかし、長年の習慣で、どうしても「消極的態度の自分」を選んでしまうようなら、「積極的態度の自分」を自然に選ぶようになるまで、自分を訓練しなければならない。  具体的には、君が「できるようになりたい」と願っているたくさんのことのうち、すぐ目の前の「いま、できないこと」を意識して、できるようにする。すると、「できること」が君に一つ加わる。これをしばらくのあいだ、くりかえしていると、君の潜在意識に「できる」という事実が積み重なっていく。小さな「できる」の積み重ねが、やがて大きな変化を起こす。君は、いつでも「できる自分」を選ぶようになる。  自分の目標を達成するために、新学年の学習に積極的態度で取り組んでいこう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 February

自分の道を進もう! Go your own way!  入学試験には、合格と不合格がある。解答に対して、正解と不正解がある。記述問題のように、正解と不正解のあいだという場合もあるが、それでもすべてが得点化され、入学試験の結果によって、合格、不合格が決められる。  受験生を指導する立場でいうと、目に見える得点以外に、やる気や情熱や志を評価してもらいたいと心から思う。募集定員がある以上、競争はやむを得ないのだが、それでも、君たちのやる気や情熱や志を評価しないのはもったいないように感じる。なぜなら、本当に重要なのは、入学後の取り組みだからだ。  入試直前になると、受験生のみんなに、どんな言葉をかけるべきなのか、やはり悩む。これまで生徒たちにたくさんの励ましやアドバイスの言葉をかけてきたけれど、入学試験に立ち向かう直前にふさわしい言葉はなんだろうか?  それぞれの志望校合格に向けて、かけてきた時間量はずいぶん違うだろうけれど、「この学校に行きたい」「この学校に合格したい」という気持ちに違いはない。そうだとすれば、入試当日において、自分の道を進んでいこうとする君たちに求められるのは、「平常心」である。  これまで培った自分の力を出し切るためにも、「平常心」で試験問題に取り組んでほしい。余計なことを考えずに、試験時間中は、試験問題に全力を注いでほしい。  入学試験は人生の通過点の一つだけれど、そこに全力を注いだかどうかは、その後を左右するだろう。結果として、どの学校に進んだとしても、入学した学校から、君は、もっと大きな、未来の目標に向かって、進んでいく。君の人生は、学校が決めるのではなく、君が自分で決めるのだ。  「平常心」は、禅宗の最も重要な言葉の一つ。  禅宗の公案を集めた書物『無門関』に「平常是道」という文章がある。  師匠の南泉和尚に、趙州和尚が質問した。  「道って、なんですか?」  南泉和尚が答えて、  「平常心が、道だよ」  「それじゃあ、平常心という道に向かっていくべきですか?」  「平常心に向かおうと意識してもだめだね」  「意識しなかったら、平常心かどうかわからないじゃありませんか」   「道は知ることでもないし、知らないことでもない。知ったと思えばまちがうし、知らなければそれだけのこと。もし、本当に、疑わない道(平常心)に達したなら、宇宙万物は、わだかまりなく、深く広いものだ。論ずる必要もないよ」  そういわれて、趙州和尚は、たちまち悟った。(無門関十九)  疑わない道が平常心である。この場合、疑わないというのは、「いま、ここにいる、自分」という存在のことだろう。いかなる場合にも、「平常心」であることを禅宗では求める。  さあ、入学試験会場で、開始時間が近づいたとき、ゆっくりと呼吸して、リラックスしよう。そして、自分を疑わずに、全力で取り組もう。  君は、いつでも自分の道を進んでいるのだ。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 January

未来の自分が、本当の目標だ! Your Future Self  小学生、中学生、高校生、それぞれの最終学年に受験生がいる。入試日が近づいているので、一様に緊張が高まっているようだ。大学受験生のなかにはすでに推薦入試で合格した生徒もいれば、不合格に涙した生徒もいる。  先日、山手学院高校部の大学受験生と話をした。第一志望の国立大学の推薦入試は不合格であったけれど、これから一般入試に向けて、全力で受験学習に取り組むと決意を語ってくれた。  「推薦入試は、調査書20点・小論文40点・面接60点の合計120点満点の審査で、すべてベストを尽くしましたから、後悔はないです。高校の先生は、一般入試では無理かもしれない、浪人の覚悟が必要だ、というのですが、わたしはあきらめません。一般入試でかならず合格します」  彼の名誉のためにいっておくと、彼が受験した国立大学教育学部の教科教育コース専修の推薦入試は、募集人員3名である。おなじ志を持つライバルたちと競うのだから、わずかな差で合否が分かれる。彼の力量不足ではない。  彼が志望する国立大学の全体としてのアドミッション・ポリシーは、 ①(知識・技能)専門分野の学修に必要な基礎学力を有していること。 ②(知的関心)地域の事象、自然環境、国際社会、人間と多様な文化等の広い分野に対する知的関心を有していること。 ③(思考力・判断力・表現力)他者とともに課題解決を目指した経験があり、そのための基礎的な思考力・判断力・表現力を有していること、あるいは、それらを身につける意欲を有していること。 ④(主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度)多様な人々とコミュニケーションを取りながら協働して主体的に活動した経験があること、あるいは、そのような活動をする意欲を有していること。  この四つは、すべての大学生に求められる能力・資質といえる。アドミッション・ポリシーというのは、県公立高校でいえば、「本校が求める生徒」である。たとえば、川越高校が求める生徒は、「伝統ある自主独立の精神を自覚し実践する生徒。高い志を立て、その実践に向け常に努力を重ねる生徒。文武において切磋琢磨し自己を高め、優位なリーダーを目指す生徒」だ。  現在、小学生、中学生である君たちも、ゆくゆくは自分の希望に合った大学を目指すことになるだろう。中学受験であっても、高校受験であっても、まず未来の自分を考え、「学びたいこと、身につけたいこと」があるからこそ、君たちは志望校を持ち、受験生になるのだ。  さきほどの高校生が目指す国立大学教育学部は、アドミッション・ポリシーに加えて、入学者の能力・資質として、①各教科についての幅広い知識、②教育への関心と教員になりたいという強い意欲、を求めている。この生徒は、中学生のころから、「教育への関心と教員になりたいという強い意欲」を持ち続け、いま、受験生としてチャレンジしている。将来、彼はよい教師になるにちがいない。わたしは彼が合格することを信じている。  君たちも、未来の自分のことを考えてみよう。君たちの道は未来の自分につながっている。未来から見れば、小学校も、中学校も、高校も、大学も、君が通過してきた場所である。だから、受験生にとっての志望校は、当面の目標であり、突破すべき目標で、どの学校であっても、入学したとき、つぎの目標を目指すための場所に変わる。ほんとうの目標はもっともっと先にあるのだ。  さあ、当面の目標を達成するために、受験当日まで、徹底的に学習に取り組もう。悔いをカケラも残さないくらいに。 学院長 筒井保明