Archive List for そろばん通信

そろばん通信|2021年8月号

競技としてのそろばん  毎年、8月8日「そろばんの日」に全国珠算教育連盟主催の全日本珠算選手権大会が開催されます。そろばん日本一を決定する個人総合競技をはじめとして、各種目別競技に全国の選手たちがチャレンジします。  柔道や剣道や空手などの武道から、さまざまなスポーツ、また、ゲームや暗記や早食いにも競技がありますから、競技としてのそろばんにもまったく違和感はないでしょう。むしろ、そろばんは計算速度の世界でもありますから、F1やインディカーのレースのように、熟達者は、自然と、そろばんの正確さと速度を競いたくなるではないでしょうか。だからこそ、おなじように、ゲームにも、暗記にも、早食いや大食いにも、競技が成立するのです。  NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、藍商人の息子であった渋沢栄一もそろばんの熟達者でしたから、きっと誰よりも速く計算できることに快感を覚えていたはずです。じつは、ゆっくりとそろばんを操作するよりも、できるだけ速くそろばんを操作するほうが、気持ちもいいし、計算にもまちがいが少ないのです。あわてることはだめですが、どんなに速くても、そろばんの操作が快活であれば、計算は正確になります。  わたしは、残念ながら、「青天を衝け」を見ていないのですが、毎週、欠かさずに見ている教師から、「藍の買い付けなどでは、当然、算盤が出てきましたが、一橋家の重要な場面でも算盤が出てきましたよ」という報告を受けています。  慶喜に対して、「武士とて、金は入り用。それがしは一橋家の懐具合を整えたいのです」といって、算盤をバンと取り出し、「ふところを豊かにし、その土台を頑丈にする。軍事よりはむしろ、そのような御用こそ、おのれの長所でございます」と断言した場面のようです。  江戸時代は、その末期といえども、儒学が国教として生きていました。中国の思想家である孔子(紀元前552年―紀元前479年)の教えを編集した『論語』がその中心です。  「孔子は、理財(経済)を説いていないのではないか」という疑問に対して、渋沢栄一は、断固として否定し、「孔子が理財(経済)を理解していたことはまちがいない」と主張しています。だからこそ、「算盤は論語によってできている」と明言できたのです。  上記の慶喜との対面の場面に登場したそろばんは、もちろん論語によってできているそろばんでしょう。徳川家康の再来といわれた徳川慶喜が『論語』を熟知していないはずがありません。論語算盤説を信念とする渋沢栄一は少年時代から「片手に論語、片手に算盤」です。渋沢の言葉は、慶喜の胸にも強く響いたはずです。  平和な時代であれば、競技としてのそろばんを渋沢栄一は支持したであろうし、むしろ「渋沢栄一杯」などの大会を主催したかもしれません。なにしろ「国民が算盤を忘れたら、国が滅亡してしまう」という言葉を残しているくらいです。渋沢にとって、儒学(論語)と同等に、算盤は重要なものでした。「片手に論語、片手に算盤」で、はじめてバランスがとれるのです。  大河ドラマが大評判になったあかつきには、「渋沢栄一杯」というような、そろばんの競技大会が開かれるかもしれませんね。 山手学院 学院長 筒井保明

そろばん通信|2021年7月号

渋沢栄一にとっての算盤  NHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公は、埼玉県深谷市生まれの渋沢栄一です。ドラマではあまり前面に出てこないかもしれませんが、渋沢栄一といえば、片手に『論語』を持ち、もう片手に「算盤」を持っているというのが、生前の代表的なイメージです。  渋沢栄一は、さまざまな文章のなかで「算盤」という言葉を使っています。彼は「算盤」という言葉に「経済」「理財」「商売」「利殖」「金儲け」など、多くの意味を持たせています。どの言葉にもいつも具体的な算盤のイメージがついていますから、わたしは、「渋沢栄一は、ほんとうに算盤が好きだったんだなあ」と感じて、ほほ笑んでしまいます。  渋沢の著書をたくさん読んでも、算盤の練習の話は出てきません。彼の実家は、武州榛澤群血洗島村(現深谷市)で、藍染め用の藍の製造を営んでいました。彼は14歳で商売の道に入り、掛け売り先に代金の回収にいったり、近隣の村々に藍染めの原料を買い入れにいったりするようになりました。このときには、もう算盤がしっかりと身についていたはずです。  70歳の祝いのとき、友人から来た賀状に、論語と算盤とシルクハットと朱鞘の刀剣が描かれていました。どれも渋沢栄一の人生を象徴する書物や道具です。この絵を見ても、彼にとっての算盤の重要さがわかるでしょう。  渋沢栄一は、道具としての算盤をまちがいなく使いこなしていました。珠算式暗算をやっていたかどうかはわからないのですが、その経歴を見るかぎり、抜群に計算に強かったはずです。算盤を基礎として、「商売」「経済」の世界に人生を広げていったのです。  渋沢栄一は、重要なことを語るとき、「経済」とか「理財」という言葉ではなく、ずばり「算盤」といいます。  たとえば、「もし国民が算盤を忘れ、儒学の理屈ばかりにとらわれ、虚栄に赴いてしまったら、国の元気を失い、国の生産力を弱め、最悪の場合、国が滅亡してしまう」といい、「算盤は論語によってできている。論語はまた算盤によって本当の活動されるものである。(この部分は原文のまま)だから、論語と算盤はとても遠いけれど、とても近いものであるといつも論じているのだ」と主張しています。  生徒のみなさんは、まだ論語を読んだことがないでしょう。みなさんとおなじくらいの年のとき、渋沢栄一少年は、論語を暗記しています。このとき、藍を商っていた父親から、そろばんを習い覚えたのではないか、とわたしは想像しています。  それにしても、「算盤は論語によってできている」という言葉はすごいですね。渋沢栄一は、算盤を使う仕事において、彼が立ち上げた会社や銀行において、けっして道義を外れたことはしませんでした。  経済と道徳のバランスをとりながら、92年の生涯を生き抜いたといっていいでしょう。  渋沢栄一少年は、おどろくべき読書家でした。しかし、読書だけでは、後年の渋沢栄一にならなかったでしょう。彼を「近代日本の資本主義の親」にしたのは、少年時代の「算盤」です。  渋沢栄一の伝記などを読んでから、「算盤」を見直してみると、みなさんも自分の算盤に愛情が湧くのではないでしょうか。 山手学院 学院長 筒井保明

そろばん通信|2021年6月号

レオナルド・ダ・ヴィンチと珠算式暗算  レオナルド・ダ・ヴィンチの天才の秘密に触れてみたかったら、ダ・ヴィンチとおなじトレーニングをしてみよう。  まず、バラをしっかりと見る。花びら、がく、とげ、葉軸、小葉とできるだけ細部までしっかりと見る。そして、そのイメージを頭に焼き付ける。できたかな?  つぎに目を閉じて、いま見たバラの花を細部まで頭の中に再現してみるのだ。もちろん、リアルであれば、リアルなほどよい。  やってみるとわかるのだが、思ったより頭が疲れるはずだ。リアルに思い浮かべようとすればするほど、息が切れるくらい、脳がエネルギーを使うからである。脳のエネルギー源はグルコース(ブドウ糖)と酸素だけれど、感覚としては酸素をものすごく使う。  そもそも脳は、ひとの一日分のエネルギーの20%ほどを使う。もちろん、酸素の消費量がもっとも多いのも脳で、酸素の消費量も全体の25%ほどになる。ふつうに脳を使っていても、それだけ使うのだから、リアルにイメージを思い浮かべようとするトレーニングは、かなりきついものなのだ。でも、なんどもチャレンジしていると、だんだんリアルにイメージできるようになる。このイメージ再現能力がダ・ヴィンチの天才の秘密の一つなのだ。  ダ・ヴィンチは、まちがいなくイメージで思考した。だから、ものすごい量のエネルギーをダ・ヴィンチの脳は消費した。こんなトレーニングを日常で行っていたのだから、ダ・ヴィンチの脳は、桁違いに優秀だったわけだ。  この練習をしてみると、むしろ言葉は脳の手抜きではないかと思われるくらい、楽である。山や川のイメージを思い浮かべてみろ、といわれると、けっこうたいへんだが、「山」や「川」という言葉で置き換えてしまえば、ほとんどの人がほっとするだろう。  珠算式暗算は、脳に思い浮かべた算盤のイメージを操作することだから、脳はかなりのエネルギーを使う。実際に算盤を使って計算するほうが楽で、珠算式暗算は、本人が思っているよりもはるかにエネルギーを使うはずだ。もし算盤を使用しているときと、珠算式暗算を行っているときの酸素の消費量を量ることができれば、きっとおもしろい結果になるだろう。  みなさんは、ぜひ珠算式暗算で、脳のイメージ操作力を鍛えてください。イメージを操作することは、みなさんが予想しているよりもはるかに疲れるけれど、そのぶん、みなさんの脳は鍛えられる。  「イメージが先。言葉が後」  イメージを覚えたり、操作したりすることにはたくさんのエネルギーを使うけれど、いちど、その経験をしておくと、「言葉って、なんて楽で便利なものだろう」ということがわかる。  もしレオナルド・ダ・ヴィンチの眼の前に算盤があったら、イメージ・トレーニングを使って、彼はあっというまに珠算式暗算の名人になったのではなかろうか。なぜなら、脳のなかでさまざまな花のイメージを細部まで再現できたダ・ヴィンチは、算盤をリアルに思い浮かべて操作することぐらい、かんたんにやってのけたであろうからだ。 山手学院 学院長 筒井保明

そろばん通信|2021年5月号

そろばんは体感だ!  数学史で九九の歴史をさかのぼりますと、半九九、また逆九九の記録が先に登場します。  わたしたちがおぼえる総九九が日本で採用されたのは1925年ですから、それほどむかしではありません。  九九は、基本的に暗記します。イメージを操作することもできますが、一般的には、数字という言語を使用した暗記といっていいでしょう。  前回、3×3=9(さざんがく)、4×2=8(しにがはち)のように、「が」が残ったのは、そろばん教師のおかげであったことを話しました。当時の文部省は、(さんさんく)とか(しにはち)のように、「が」を捨てる指示を教師にしていたのです。  せっかくそろばん教師たちが、唱えやすいように「が」を残したのですから、みなさんは声に出して九九を暗記しましょう。  ところで、最近、総九九を逆にひっくりかえした逆九九表を学習プリント.comが無料で提供しています。  9×9=81(くくはちじゅういち)から始まりますので、逆九九表です。この表を答えられるようにすると、柔軟に九九を使えるようになるでしょう。  ただし、歴史的には、逆九九は、九九八十一から始めて、大きい数×小さい数、同じ数×同じ数、以外は省くのが本当です。  さて、九九は、数字という言語を使用した暗記ですが、そろばんと決定的にちがうことがわかりますか?  そろばんの盤面は、約束によって、数字として読むことができますが、そろばんの玉一つ一つは、樺玉、柘植玉、黒檀玉、紫檀玉、梅玉など、どんな種類の玉であっても、そろばんの玉にすぎません。  いっぽう、電卓は数字キーに数字が記入されていますから、数字という言語の操作です。  そう考えてみますと、そろばんって、なんだか不思議な道具ですね。  わたしが小学生のころにもどってみますと、そろばんの重みや手触り、また、玉を弾くときの感触や音感がよみがえってきます。電卓とは、ぜんぜんちがう世界が広がります。  珠算式暗算でも、意識のどこかに、そろばんを弾いて練習したときの体感が残っているでしょう。  そろばん以外でも、書道、絵画、彫刻、裁縫、弓道、剣道、料理など、道具を使う作業をくりかえしていますと、言葉ではうまく表現できない体感が身についてきます。  小学生にとって、体感をともなう学習はとても重要です。 山手学院 学院長 筒井保明

そろばん通信|2021年4月号

ややこしい九九のはなし  むかし(といっても大正・昭和のはじめ)のそろばんの本を読んでいると、半九九、順九九、逆九九、総九九というようなことが書いてあります。  もっとむかし(江戸時代・明治時代)のそろばんの本を読むと、掛け算の九九だけでなく、割り算の九九まで出てきます。  松下村塾の吉田松陰先生は、江戸時代の人ですから、門下生に割り算の九九まで教えていましたが、あんまりややこしいので、わたしは、最後まで読まないで投げ出してしまいました。  左の図は、半九九の表で、文字どおり、九九が半分しかありません。同じ数×同じ数、小さい数×大きい数、以外の掛け算は省いてしまいます。順九九ともいいます。  逆九九というのは、この表をひっくり返して、九九八十一から始めるのですが、同じ数×同じ数、大きい数×小さい数、以外の掛け算は省いてしまいます。  これは、中国や日本のいちばん古い九九の記録が、半九九、逆九九のように書かれているからです。記述するのが、めんどうだっただけかもしれないのですが、伝統的に、中国や日本では、半九九、逆九九、でした。  半九九と逆九九を足すと、総九九になります。  現在では、ほとんどの九九の表は、総九九になっていますね。  日本の学校教育で総九九が採用されたのは、大正14年(1925年)ですので、96年前のことです。当時は、先生自体が半九九(順九九)しかできませんでしたから、苦手な先生は総九九を教えることにずいぶん抵抗があったようです。  そのうえ、たとえば、三五十五(3×5=15)のうち、どちらが「かけられる数」で、どちらが「かける数」か、で議論がわかれていました。3の5倍は15、と考えるか、3倍の5は15、と考えるか、ということです。九九も意外とややこしいものです。  ところで、当時の教師用の解説書には、九九の呼び声として、「二一二」「二二四」と呼べ、と書かれていました。  これに対して、そろばんの教師たちが、「にいちに、ににし」では覚えにくい。そろばんで覚えるように、二一ガ二、二二ンガ四と唱えるほうが記憶しやすい」と反対しました。  また、「ガ」が十の位にあたるので、そろばんの珠の置きまちがえがなくなると主張しました。  たとえば、  三一ガ三 3×1「ガ三」(03)  三二ガ六 3×2「ガ六」(06)  三三ガ九 3×3「ガ九」(09)  三四十二 3×4「十二」(12)  三五十五 3×5「十五」(15)  九九の答えが二桁になるとき、「ガ」が入らないことに気がつきましたか?  九九の呼び声に「ガ」が残ったのは、そろばんの功績の一つでしょう。  なにしろ、当時の文部省は、「ガ」を捨てようとしていたのですから。  みなさんは、まず総九九をしっかりと自分のものにしてください。 山手学院 学院長 筒井保明

そろばん通信|2021年3月号

そろばん名人のひみつ  3+3を6と答えるとき、「3+3」に対して、反射的に「6」という言葉を答えることを暗記的算数といいます。暗記的算数に関して、わたしは、九九などを除いて否定的な意見をもっていますが、計算能力として、 1+1は、2 2+2は、4 3+3は、6 と反射的に覚えさせる教授法があることは事実です。暗記的算数のまま、小学生の算数をずっと先まで教えてしまう教室もあります。  でも、これでいいのでしょうか?  暗記的算数は、どこまでいっても言葉の操作です。言葉の操作ですから、自由自在に広がることができません。  物理学者のアインシュタインは、「数学でも物理でもイメージを操作した」と自分でいっています。重要なのは、言語の操作ではなく、イメージの操作です。  上の計算をイメージに置き換えますと、 ●+●は、●● ●●+●●は、●●●● ●●●+●●●は、●●●●●● になります。  わたしは、イメージの操作こそ、小学生が学ぶべき方法だと考えています。  そろばんは、そろばん上のイメージの操作です。数学史的にいっても、小学生にふさわしい学習です。  ひとの思考のおおもとはイメージです。ずいぶん以前、「ひとは言葉で思考する。言葉がなければ思考できない」といわれていましたが、現在では「ひとはイメージで思考して、言葉で表現する」といわれます。  たとえば、朝、コーヒーを入れようと考えます。お湯をわかし、コーヒー豆をひき、カップを用意し、ドリッパーをカップの上に置き、紙フィルターを開いてドリッパーに置き、ひいたコーヒーの粉を入れ、お湯を少し注ぎ、ちょっと蒸らしてから、さらにお湯を徐々に注ぎます。  この行動に対して、最初は意識して言語化するかもしれませんが、なんどもコーヒーを入れて慣れてきますと、もう言語化することはありません。だまって、コーヒーを入れます。  このコーヒーを入れるという行動を行わせているのは、イメージによる思考です。  もしできあがったコーヒーの味がまずければ、コーヒー豆のひき具合を変えるとか、お湯の入れ方を変えるとか、言葉ではなく、イメージで思考します。コーヒーを上手に入れるためには、実践が必要なのであって、言葉ではありません。  じつは、そろばん名人のひみつもおなじです。  そろばんを習い始めのころは、意識して言葉にあらわすかもしれませんが、慣れてきたらイメージで計算して、最後の答えだけを言葉にあらわします。計算の途中段階をいちいち言葉になおしていたら、速い計算はできません。究極のそろばん名人は、無意識のなかでイメージを操作しているのです。  暗記的算数の欠点はイメージをともなわないことにあるとわたしは考えています。  そろばんを見て(イメージして)、明るい気持ちで、楽しくそろばんに取り組みましょう。 学院長 筒井保明

そろばん通信|2021年2月号

五玉の発明  前回、小学生低学年のみなさんを悩ませる「さくらんぼ計算」は、さまざまに考えられる計算の仕方のひとつだということを話しました。  基本として、数をドッツ(dot・dots)としてとらえられるなら、かんたんだよ、ともいいました。  数をドッツとしてとらえるというのは、  1は、●というドット。  2は、●●というドッツ。(英語は複数形になるとdotにsがついてdotsになります)  おなじように、  3は、●●●  4は、●●●●  5は、●●●●●  6は、●●●●●●  7は、●●●●●●●  8は、●●●●●●●●  9は、●●●●●●●●●  10は、●●●●●●●●●●  11は、●●●●●●●●●●+●  12は、●●●●●●●●●●+●●  数字が大きくなるにつれ、●がどんどん増えていきます。もともとの数字のもとは、●に象徴されるなにかの物体です。●があらわすものは、🍎かもしれないし、🍊かもしれないし、🐶かもしれないし、🌳もしれません。1000という数字をあらわすのに、数字がなかったら、●を1000個、書かなければなりませんね。数字や算数は、計算の便利のために生まれたものです。  さくらんぼ計算というのは、8+7の場合、●●●●●●●●+●●●●●●●ということであり、ひとつずつ数えるのがめんどうなので、一けた、くりあがる10(●●●●●●●●●●)をつくって、のこりの5(●●●●●)を足し、15という答えを出すやり方です。さくらんぼ計算では、8(●●●●●●●●)+7(●●●●●●●)を8(●●●●●●●●)+2(●●)+5(●●●●●)=10+5=15と考えるので、なんだかめんどうに感じるのです。  でも、このやり方は、そろばんに似ていませんか?  もし、そろばんに五玉がなくて、一玉が9個だったら、さくらんぼ計算とおなじような考えかたをするのではないでしょうか。  でも、五玉がないそろばんは、幅が大きくなりますから持ち運びにも不便ですし、指を動かす回数もずいぶん増えてしまいます。  そこで、知恵のある誰かが、五玉を発明したわけです。  こんど、そろばんの練習をするとき、もし五玉がなかったら、と考えてみてください。五玉を考えた人は偉いなあ、と思うのではないでしょうか。  十進法を使用するわたしたちにとっては、現在のそろばんはとても効率的な形になっています。梁の上側に1つの五玉、梁の下側に4つの一玉という形です。  ところで、わたしが持っているそろばんは、梁の上側に2つの玉、梁の下側に5つの玉になっているものです。中国の尺貫法では1斤が16両と定められているので、16進法の計算ができるためだそうです。  また、コンピューターに使われる2進法の計算をするために、五玉だけの算盤もあるようです。  とてもおもしろいですね。 学院長 筒井保明

そろばん通信|2021年1月号

さくらんぼ計算は考えかたのひとつ  「さくらんぼ計算」は、考えかたのひとつであり、計算方法のひとつです。ところが、計算の答えがあっているにもかかわらず、やり方がさくらんぼ計算になっていないと、△や×をつけたり、ひどい場合は、叱ったりする小学校の先生がいるようです。  文科省としては、「こういう考え方もあるよ」というレベルの話なのですが、勘違いした先生が無理強いすると、子どもたちが混乱してしまいます。  小学校学習指導要領【算数編】から、小学生や保護者の方を悩ませるさくらんぼ計算に該当する部分を引用してみましょう。  「様々な計算の仕方が考えられる」と明記されています。  数字をドッツ(Dots)としてとらえられるなら、かんたんなことですし、わたしたちが頭のなかで無意識にやっていることでもありますから、さくらんぼ計算をめんどうに感じていやがる小学生の気持ちもわかりますね。  こういった問題は、そろばんにも、暗算にも、存在します。  江戸時代、そろばんには、多くの流派がありました。割り算にも九九があり、吉田松陰先生も松下村塾で教えていました。明治、大正、昭和の初めごろまで続いていたようですが、みなさんは、おぼえません。  現在では流派の色はあまり濃くないのですが、たとえば、かけ算のとき、かけられる数とかける数をそろばんに置くか置かないか、先生によって分かれたりします。両方置く先生、片方置く先生、どちらも置かない先生、また、生徒の学年や習熟度によって使い分ける先生がいます。  正しい答えを得ることにちがいはないのですから、どれを選ぶか、君たちが決めてもよいのです。  ところで、西洋式暗算Mental MathにもLeft to Right(左から右に計算する)派とRight to Left(右から左に計算する)派がいますが、わたしはLeft to Right(右から左に計算する)派です。つまり、大きい数のほうから計算します。  山手学院のそろばん指導者である西岡先生のような達人なら、ただちにそろばん式暗算で正確な答えを得るでしょうが、西洋式暗算の場合、たとえば、15,280円の品物と23,120円の品物を買うとき、15,000円と23,000円を先に足して38,000円を得てから、400円を得て38,400円になります。これが、西洋式暗算Left to Right(左から右に計算する)派の足し算です。「すばやく概算を得れば、生活上も便利ではないか」というのがLeft to Right(左から右に計算する)派です。  小学生低学年のみなさんは、もしかしたら、さくらんぼ計算に悩まされるかもしれませんが、計算の考えかた、計算のしかたは、いろいろあることを知ってください。  そろばんは、計算の考えかた、計算のしかたとして、歴史と伝統のあるものです。  リラックスして、たのしくそろばんに取り組みましょう。 学院長 筒井保明

そろばん通信|2020年12月号

そろばんが開く未来  渋沢栄一の『論語と算盤』の話を続けますと、渋沢のいう算盤は、「経済」という意味です。論語は、「道徳」という意味です。渋沢は、「論語と算盤を一致させる」という立場ですから、道徳の「徳」はそのまま「得」であり、経済は「徳=得」の道だ、ということです。  経済は「徳=得」の道、というようなことは解説書には書いてないかもしれませんが、渋沢栄一自身の本を読むかぎり、わたしはそう確信しています。  渋沢自身も「学者は誰も言わないけれど、論語を読むかぎり、孔子は理財に通じていたと、わたしは判断する」といっています。わたしも、渋沢の言葉から、「徳=得」の道を歩んだのが渋沢の人生であったと考えます。  2021年の大河ドラマの主人公は渋沢栄一だそうですから、「徳=得」の道、を念頭に置いて、ドラマを見るのもおもしろいでしょう。  さて、むずかしい理屈は抜きにして、渋沢栄一は、どんな少年だったでしょうか。  まず注目すべきなのは、たいへんな読書家であったこと。8歳から塾に通い、『論語』をはじめとして漢籍に親しみます。また、13歳のころ、道を歩きながら『絵本三国史』を読んでいて、溝の中に真っ逆さまに落ちました。  14歳になると、稼業の商売を始めました。紺屋(染め物屋)が染め物に使う藍玉などを商っていたようです。買い入れた藍を掛け売りしていましたから、掛け金の回収もあります。とうぜん、そろばんを弾きました。  17歳、奉行所から御用金400両の通達。このときの役人の態度に反骨心が沸き上がりました。  20歳、江戸末期の世相を見て、商人から武士になることを決意。  やがて渋沢栄一は、志士となり、縁あって一橋家に奉公し、四石二人扶持の武士となりました。  28歳、フランス・アメリカの視察に随行中、大政奉還が起こり、急遽、帰朝し、徳川家の財政を整理しました。  明治政府の建設とともに、太政官となり、大蔵省租税正に任ぜられ、明治4年、大蔵省に西洋式簿記を導入し、伝票によって金銭を出納しました。(伝票算は、全珠連の珠算検定では、3級以上の選択種目)  明治6年、自分の意見が採用されず、意見書を提出して、政府の職を辞しました。  これよりのち、あくまで民間の実業家として、活躍したのです。  かんたんに経歴をふりかえっても、論語と算盤が、渋沢栄一の根幹であることがわかりますね。  もし渋沢栄一に、論語だけで、算盤がなかったとしたら、商人になることも、徳川家の財政を整理することも、大蔵省租税正になることも、西洋式簿記を導入することも、銀行家になることも、なかったのではないでしょうか。  『論語』は渋沢栄一という人格をつくったといえます。おなじように、算盤は渋沢栄一の未来を開いたといえます。  渋沢栄一が生きている当時の評者は、「算盤を投じて剣をもった国士が、今度は剣を捨てて算盤を事とし、実業家たらんと志した」といいました。渋沢栄一ほど、褒められるばかりの大実業家はほかにはいないでしょう。  みなさんのそろばんは、みなさんの未来をどのように開くのでしょうか? 学院長 筒井保明 掛け売りとは? 注文を受けて商品を納品、後から代金が支払われる仕組み。江戸時代から現在まで利用されている文化です。

そろばん通信|2020年11月号

論語と算盤  9月に行われた自民党総裁選で、候補者の一人が「論語と算盤」という国家像を掲げました。埼玉県の偉人の一人である渋沢栄一の著書『論語と算盤』に想を得たものでしょう。  ずいぶんむかしの本ですが、渋沢栄一は2021年のNHK大河ドラマの主人公ですので、これからベストセラーとして復活するかもしれません。ただし、できれば、原文を読んでください。もともと口述筆記ですので、原文からは渋沢栄一の声が聞こえますが、現代語に書き直されたものからは聞こえません。  さて、『論語』は、中国の思想家である孔子の言行録です。渋沢栄一は、孔子の教えを人生の信条としていました。渋沢は、論語で一生を貫き、論語の精神で商売を続けました。「論語と算盤」は、いいかえれば、「道徳と経済」です。  『論語と算盤』のなかで、渋沢は「勉強」ということを強調します。しかし、わたしたちが使う意味では使っていません。訓読すれば「勉め強いる」ですから、「むりしてもやる」という意味であり、わたしたちは「勉強しなきゃ!」という感じで使っていますが・・・。  渋沢は、豊臣秀吉の長所中の長所が「勉強」であると主張します。  秀吉が織田信長の草履取りをしていたとき、冬であれば、信長の草履をふところに入れて温めていました。ここまで行き届くのは、よほどの「勉強」です。  信長が朝早く外出しようとするとき、秀吉はいつでも最初に信長の声に応じました。非凡な「勉強家」です。  本能寺の変のとき、岡山県から京都府まで、秀吉は軍を率いて13日で引き返しました。尋常ならざる「勉強家」であった証拠です。  渋沢は、秀吉のこの「勉強」が、秀吉に天下統一をなさしめたのだと断言します。  どうでしょうか。渋沢栄一の「勉強」のイメージがつかめたでしょうか。  『論語と算盤』を読んで感じてもらうしかないのですが、わたしたちのそろばんに置き換えていえば、「自分でそろばんを弾いて勉強しろ」というのが渋沢の言いたかったことです。「自分でそろばんを弾かないようなやつは立派になれないぞ」というアドバイスです。渋沢栄一は銀行家でもありましたから、小さな単位の計算違いも見逃しません。そろばんを弾くことを大切にしないようなやつに、大きなことを成功させることはできない、というのが彼の考えです。  明治4年、大蔵省に西洋式簿記を導入し、伝票によって金銭を出納することにしたのも渋沢栄一でした。伝票算は、全珠連の珠算検定では、3級以上の選択種目になっていますね。  現在の日本に必要なのは、渋沢栄一のような人物です。  残念ながら、自分でそろばんを弾いたことがないような人たちが、現在の日本を動かしています。  論語と算盤が一致していれば、また、道徳と経済が一体化していれば、日本は、現在のような事態にはなっていないはずです。  渋沢栄一の批判は、今日でも、そのまま続いています。そろばんを弾いている小学生のみなさんが大人になるころには、もっといい日本になっていることを願います。  「自分でそろばんを弾くこと」は、渋沢栄一のいう「勉強」のスタートです。  積極的に取り組みましょう。 学院長 筒井保明