Archive List for そろばん通信

そろばん通信|2021年10月号

そろばんは小学生にふさわしい!  お年寄りの回想録を読んでいたとき、 「不思議なことに、何十年もそろばんを手に取っていなかったのに、小学生のときに身につけたそろばんや暗算は、いまもやろうと思えば、できるのですよ」  というセリフがありました。  たしかに、そろばん検定を取得している大人たちに聞いても、 「ずいぶん長いあいだ、やっていませんが、いまでも自然にできますね。暗算は日常で使っていますから当然かもしれませんが、そろばんもだいじょうぶです」  というような返答が大半です。  ときどき、 「もう忘れちゃったかな。でも、ちょっと練習すれば、いけるかな」  という弱気な発言もありますが、「ちょっと練習すれば」というところにすこし自信が見えますね。  そろばんだけでなく、小学生のときにしっかりと身につけた能力は、大人になっても失われることはないようです。水泳やバスケットボールのようなスポーツでも、ピアノやバイオリンのような音楽でも、小学生のうちに身につけたことは、大人になってもできるのです。  いっぽう、大人になってから、小学生とおなじ学習をしようとすると、そろばんでも、スポーツでも、芸術でも、大人はなかなか上達しないのです。途中であきらめてしまう大人のほうが多いかもしれません。なにごとでも身につけるためには単純な反復練習が必要なのですが、小学生には耐えられても、多くの大人たちは耐えられないからです。  単純な繰り返し練習が必要な習い事やスポーツは、小学生のうちにやっておくのが正解でしょう。  なかなか新しいことが身につかない大人たちを見て、クリティカルエイジやクリティカルピリオド(学習の臨界期)のような仮説が立てられたのではないでしょうか。学習の臨界期というのは、ある年齢を超えると、新しい学習が身につけられないのではないか、という考えです。たとえば、音声認識(絶対音感など)であれば5歳くらいまで、言語能力であれば8~13歳くらいまで、という仮説です。  全体の傾向として、大人たちを見ていますと、クリティカルエイジやクリティカルピリオドが存在するような気がしますが、もちろん例外的な大人たちもいますから、やはり仮説ですね。  そういっても、そろばんに関していえば、はじめてそろばんを習う小学生と大人では、小学生のほうがまちがいなく上達が速いでしょう。  お年寄りの回想のとおり、小学生のときに身につけた能力は、ずっと長持ちします。  そろばんの練習は、小学生にふさわしい学習です。 山手学院 学院長 筒井保明

そろばん通信|2021年8月号

競技としてのそろばん  毎年、8月8日「そろばんの日」に全国珠算教育連盟主催の全日本珠算選手権大会が開催されます。そろばん日本一を決定する個人総合競技をはじめとして、各種目別競技に全国の選手たちがチャレンジします。  柔道や剣道や空手などの武道から、さまざまなスポーツ、また、ゲームや暗記や早食いにも競技がありますから、競技としてのそろばんにもまったく違和感はないでしょう。むしろ、そろばんは計算速度の世界でもありますから、F1やインディカーのレースのように、熟達者は、自然と、そろばんの正確さと速度を競いたくなるではないでしょうか。だからこそ、おなじように、ゲームにも、暗記にも、早食いや大食いにも、競技が成立するのです。  NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、藍商人の息子であった渋沢栄一もそろばんの熟達者でしたから、きっと誰よりも速く計算できることに快感を覚えていたはずです。じつは、ゆっくりとそろばんを操作するよりも、できるだけ速くそろばんを操作するほうが、気持ちもいいし、計算にもまちがいが少ないのです。あわてることはだめですが、どんなに速くても、そろばんの操作が快活であれば、計算は正確になります。  わたしは、残念ながら、「青天を衝け」を見ていないのですが、毎週、欠かさずに見ている教師から、「藍の買い付けなどでは、当然、算盤が出てきましたが、一橋家の重要な場面でも算盤が出てきましたよ」という報告を受けています。  慶喜に対して、「武士とて、金は入り用。それがしは一橋家の懐具合を整えたいのです」といって、算盤をバンと取り出し、「ふところを豊かにし、その土台を頑丈にする。軍事よりはむしろ、そのような御用こそ、おのれの長所でございます」と断言した場面のようです。  江戸時代は、その末期といえども、儒学が国教として生きていました。中国の思想家である孔子(紀元前552年―紀元前479年)の教えを編集した『論語』がその中心です。  「孔子は、理財(経済)を説いていないのではないか」という疑問に対して、渋沢栄一は、断固として否定し、「孔子が理財(経済)を理解していたことはまちがいない」と主張しています。だからこそ、「算盤は論語によってできている」と明言できたのです。  上記の慶喜との対面の場面に登場したそろばんは、もちろん論語によってできているそろばんでしょう。徳川家康の再来といわれた徳川慶喜が『論語』を熟知していないはずがありません。論語算盤説を信念とする渋沢栄一は少年時代から「片手に論語、片手に算盤」です。渋沢の言葉は、慶喜の胸にも強く響いたはずです。  平和な時代であれば、競技としてのそろばんを渋沢栄一は支持したであろうし、むしろ「渋沢栄一杯」などの大会を主催したかもしれません。なにしろ「国民が算盤を忘れたら、国が滅亡してしまう」という言葉を残しているくらいです。渋沢にとって、儒学(論語)と同等に、算盤は重要なものでした。「片手に論語、片手に算盤」で、はじめてバランスがとれるのです。  大河ドラマが大評判になったあかつきには、「渋沢栄一杯」というような、そろばんの競技大会が開かれるかもしれませんね。 山手学院 学院長 筒井保明

そろばん通信|2021年7月号

渋沢栄一にとっての算盤  NHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公は、埼玉県深谷市生まれの渋沢栄一です。ドラマではあまり前面に出てこないかもしれませんが、渋沢栄一といえば、片手に『論語』を持ち、もう片手に「算盤」を持っているというのが、生前の代表的なイメージです。  渋沢栄一は、さまざまな文章のなかで「算盤」という言葉を使っています。彼は「算盤」という言葉に「経済」「理財」「商売」「利殖」「金儲け」など、多くの意味を持たせています。どの言葉にもいつも具体的な算盤のイメージがついていますから、わたしは、「渋沢栄一は、ほんとうに算盤が好きだったんだなあ」と感じて、ほほ笑んでしまいます。  渋沢の著書をたくさん読んでも、算盤の練習の話は出てきません。彼の実家は、武州榛澤群血洗島村(現深谷市)で、藍染め用の藍の製造を営んでいました。彼は14歳で商売の道に入り、掛け売り先に代金の回収にいったり、近隣の村々に藍染めの原料を買い入れにいったりするようになりました。このときには、もう算盤がしっかりと身についていたはずです。  70歳の祝いのとき、友人から来た賀状に、論語と算盤とシルクハットと朱鞘の刀剣が描かれていました。どれも渋沢栄一の人生を象徴する書物や道具です。この絵を見ても、彼にとっての算盤の重要さがわかるでしょう。  渋沢栄一は、道具としての算盤をまちがいなく使いこなしていました。珠算式暗算をやっていたかどうかはわからないのですが、その経歴を見るかぎり、抜群に計算に強かったはずです。算盤を基礎として、「商売」「経済」の世界に人生を広げていったのです。  渋沢栄一は、重要なことを語るとき、「経済」とか「理財」という言葉ではなく、ずばり「算盤」といいます。  たとえば、「もし国民が算盤を忘れ、儒学の理屈ばかりにとらわれ、虚栄に赴いてしまったら、国の元気を失い、国の生産力を弱め、最悪の場合、国が滅亡してしまう」といい、「算盤は論語によってできている。論語はまた算盤によって本当の活動されるものである。(この部分は原文のまま)だから、論語と算盤はとても遠いけれど、とても近いものであるといつも論じているのだ」と主張しています。  生徒のみなさんは、まだ論語を読んだことがないでしょう。みなさんとおなじくらいの年のとき、渋沢栄一少年は、論語を暗記しています。このとき、藍を商っていた父親から、そろばんを習い覚えたのではないか、とわたしは想像しています。  それにしても、「算盤は論語によってできている」という言葉はすごいですね。渋沢栄一は、算盤を使う仕事において、彼が立ち上げた会社や銀行において、けっして道義を外れたことはしませんでした。  経済と道徳のバランスをとりながら、92年の生涯を生き抜いたといっていいでしょう。  渋沢栄一少年は、おどろくべき読書家でした。しかし、読書だけでは、後年の渋沢栄一にならなかったでしょう。彼を「近代日本の資本主義の親」にしたのは、少年時代の「算盤」です。  渋沢栄一の伝記などを読んでから、「算盤」を見直してみると、みなさんも自分の算盤に愛情が湧くのではないでしょうか。 山手学院 学院長 筒井保明