学院長からのメッセージ 2019 March

自分を選ぶ! Choose yourself!  人は自己イメージに従って行動する。  「できる」と思っている生徒は、できるように行動するし、「できない」と思っている生徒は、できないように行動してしまう。  だから、最初から「自分はできる」と決めて、あらゆることに取り組めばいいのだが、うまくいかない生徒も多いだろう。  「できる・できない」は、「積極的態度・消極的態度」といいかえてもいい。積極的態度で取り組むと、できるようになるし、消極的態度で取り組むと、なかなかできるようにならない。  君の態度が「積極的か・消極的か」ということは、君の人生を左右する本質的な問題である。  では、なにが君を積極的にし、なにが君を消極的にするのだろう?  答えは、君自身の選択だ。君が積極的な自分を選べば、積極的態度になり、君が消極的な自分を選べば、消極的態度になる。  君は、君自身が選んだ自己イメージどおりの君なのだ。    たとえば、有名な「ルビンの壺」の図柄を見てみよう。  最初はたんなる白黒の図柄である。しかし、見ているうちに「壺」を見た君は、この図柄から「壺」というイメージを選んだのであり、「向き合う人たち」を見た君は、「向き合う人たち」というイメージを選んだのである。  つぎの絵は、どうだろう。「老婆」を見た君は、「老婆」を選んだのであり、「若い女性」を見た君は、「若い女性」を選んだのである。専門的には「ゲシュタルト」というけれど、君の頭の中でつくられたイメージ(意味のある全体)が「老婆」になり、「若い女性」になる。そして、イメージを選択するのは、君だ。  これは視覚の例であるけれど、人はあらゆる現象に対して同じことをおこなう。  だから、君という複雑な存在に対して、君はいろいろな自分を選択して思い描くことができる。本来、君は積極的でも消極的でもない。そのままの君だ。  ところが、君は、自分のことを積極的だと思ったり、消極的だと思ったりする。つまり、そのままの君の中から、積極的な自分を選んだり、消極的な自分を選んだりしている。  そうだとしたら、自分の目標を達成したい君が実行することは、「積極的態度の自分」を選ぶことだ。積極的態度で「できる」と信じて取り組むならば、たいていのことはできる。  しかし、長年の習慣で、どうしても「消極的態度の自分」を選んでしまうようなら、「積極的態度の自分」を自然に選ぶようになるまで、自分を訓練しなければならない。  具体的には、君が「できるようになりたい」と願っているたくさんのことのうち、すぐ目の前の「いま、できないこと」を意識して、できるようにする。すると、「できること」が君に一つ加わる。これをしばらくのあいだ、くりかえしていると、君の潜在意識に「できる」という事実が積み重なっていく。小さな「できる」の積み重ねが、やがて大きな変化を起こす。君は、いつでも「できる自分」を選ぶようになる。  自分の目標を達成するために、新学年の学習に積極的態度で取り組んでいこう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 February

自分の道を進もう! Go your own way!  入学試験には、合格と不合格がある。解答に対して、正解と不正解がある。記述問題のように、正解と不正解のあいだという場合もあるが、それでもすべてが得点化され、入学試験の結果によって、合格、不合格が決められる。  受験生を指導する立場でいうと、目に見える得点以外に、やる気や情熱や志を評価してもらいたいと心から思う。募集定員がある以上、競争はやむを得ないのだが、それでも、君たちのやる気や情熱や志を評価しないのはもったいないように感じる。なぜなら、本当に重要なのは、入学後の取り組みだからだ。  入試直前になると、受験生のみんなに、どんな言葉をかけるべきなのか、やはり悩む。これまで生徒たちにたくさんの励ましやアドバイスの言葉をかけてきたけれど、入学試験に立ち向かう直前にふさわしい言葉はなんだろうか?  それぞれの志望校合格に向けて、かけてきた時間量はずいぶん違うだろうけれど、「この学校に行きたい」「この学校に合格したい」という気持ちに違いはない。そうだとすれば、入試当日において、自分の道を進んでいこうとする君たちに求められるのは、「平常心」である。  これまで培った自分の力を出し切るためにも、「平常心」で試験問題に取り組んでほしい。余計なことを考えずに、試験時間中は、試験問題に全力を注いでほしい。  入学試験は人生の通過点の一つだけれど、そこに全力を注いだかどうかは、その後を左右するだろう。結果として、どの学校に進んだとしても、入学した学校から、君は、もっと大きな、未来の目標に向かって、進んでいく。君の人生は、学校が決めるのではなく、君が自分で決めるのだ。  「平常心」は、禅宗の最も重要な言葉の一つ。  禅宗の公案を集めた書物『無門関』に「平常是道」という文章がある。  師匠の南泉和尚に、趙州和尚が質問した。  「道って、なんですか?」  南泉和尚が答えて、  「平常心が、道だよ」  「それじゃあ、平常心という道に向かっていくべきですか?」  「平常心に向かおうと意識してもだめだね」  「意識しなかったら、平常心かどうかわからないじゃありませんか」   「道は知ることでもないし、知らないことでもない。知ったと思えばまちがうし、知らなければそれだけのこと。もし、本当に、疑わない道(平常心)に達したなら、宇宙万物は、わだかまりなく、深く広いものだ。論ずる必要もないよ」  そういわれて、趙州和尚は、たちまち悟った。(無門関十九)  疑わない道が平常心である。この場合、疑わないというのは、「いま、ここにいる、自分」という存在のことだろう。いかなる場合にも、「平常心」であることを禅宗では求める。  さあ、入学試験会場で、開始時間が近づいたとき、ゆっくりと呼吸して、リラックスしよう。そして、自分を疑わずに、全力で取り組もう。  君は、いつでも自分の道を進んでいるのだ。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 January

未来の自分が、本当の目標だ! Your Future Self  小学生、中学生、高校生、それぞれの最終学年に受験生がいる。入試日が近づいているので、一様に緊張が高まっているようだ。大学受験生のなかにはすでに推薦入試で合格した生徒もいれば、不合格に涙した生徒もいる。  先日、山手学院高校部の大学受験生と話をした。第一志望の国立大学の推薦入試は不合格であったけれど、これから一般入試に向けて、全力で受験学習に取り組むと決意を語ってくれた。  「推薦入試は、調査書20点・小論文40点・面接60点の合計120点満点の審査で、すべてベストを尽くしましたから、後悔はないです。高校の先生は、一般入試では無理かもしれない、浪人の覚悟が必要だ、というのですが、わたしはあきらめません。一般入試でかならず合格します」  彼の名誉のためにいっておくと、彼が受験した国立大学教育学部の教科教育コース専修の推薦入試は、募集人員3名である。おなじ志を持つライバルたちと競うのだから、わずかな差で合否が分かれる。彼の力量不足ではない。  彼が志望する国立大学の全体としてのアドミッション・ポリシーは、 ①(知識・技能)専門分野の学修に必要な基礎学力を有していること。 ②(知的関心)地域の事象、自然環境、国際社会、人間と多様な文化等の広い分野に対する知的関心を有していること。 ③(思考力・判断力・表現力)他者とともに課題解決を目指した経験があり、そのための基礎的な思考力・判断力・表現力を有していること、あるいは、それらを身につける意欲を有していること。 ④(主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度)多様な人々とコミュニケーションを取りながら協働して主体的に活動した経験があること、あるいは、そのような活動をする意欲を有していること。  この四つは、すべての大学生に求められる能力・資質といえる。アドミッション・ポリシーというのは、県公立高校でいえば、「本校が求める生徒」である。たとえば、川越高校が求める生徒は、「伝統ある自主独立の精神を自覚し実践する生徒。高い志を立て、その実践に向け常に努力を重ねる生徒。文武において切磋琢磨し自己を高め、優位なリーダーを目指す生徒」だ。  現在、小学生、中学生である君たちも、ゆくゆくは自分の希望に合った大学を目指すことになるだろう。中学受験であっても、高校受験であっても、まず未来の自分を考え、「学びたいこと、身につけたいこと」があるからこそ、君たちは志望校を持ち、受験生になるのだ。  さきほどの高校生が目指す国立大学教育学部は、アドミッション・ポリシーに加えて、入学者の能力・資質として、①各教科についての幅広い知識、②教育への関心と教員になりたいという強い意欲、を求めている。この生徒は、中学生のころから、「教育への関心と教員になりたいという強い意欲」を持ち続け、いま、受験生としてチャレンジしている。将来、彼はよい教師になるにちがいない。わたしは彼が合格することを信じている。  君たちも、未来の自分のことを考えてみよう。君たちの道は未来の自分につながっている。未来から見れば、小学校も、中学校も、高校も、大学も、君が通過してきた場所である。だから、受験生にとっての志望校は、当面の目標であり、突破すべき目標で、どの学校であっても、入学したとき、つぎの目標を目指すための場所に変わる。ほんとうの目標はもっともっと先にあるのだ。  さあ、当面の目標を達成するために、受験当日まで、徹底的に学習に取り組もう。悔いをカケラも残さないくらいに。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2018 December

自分を信じよう! Trust yourself !  お正月を迎え、寺院や神社に出かける機会が増えるだろう。寺院のお御籤や神社の御神籤をひく人もいるだろう。一年の吉凶禍福をうらなうわけだが、吉凶はあざなえる縄のごとしで、裏表でしかない。 「よい」と思えば吉だし、「わるい」と思えば凶である。  日本のおみくじの祖は、第18代天台座主、良源(912-985)。  中国の観音籤が、如意輪観音の化身といわれる良源(元三大師)に託された。  天台宗の大僧正・天海(1536-1643)が住職を務めた川越大師喜多院の護符も良源の変化である「豆大師」(魔滅大師)と「角大師」である。鬼のような姿は、悪魔降伏の行法のとき、良源が変身したものだという。  元三大師のおみくじは、大吉・吉・小吉・末吉・凶をとりまぜて、一番から百番まで。江戸時代・明治時代の解説書を見ると、くじの引き方のルールが厳しい。まず身を清める。手を洗って、口をすすぐ。香をたいて、観音様を念じて、法華経普門品を読む。呪文を三百三十三回、礼拝を三十三回、おみくじの箱を三度頂戴して、願文を読む。そうして、箱を振って、おみくじを取り出す。  江戸時代・明治時代の人たちが、これを実行して、おみくじを引いていたとは思えないが、ルールはルールである。きちんとやった人もいるだろう。  さて、大吉が出れば、うれしいし、凶が出たら、やっぱりいやだろう。  そこで大吉を一本引いてみる。  第九十番 大吉  一信向レ天飛。(一信、天に向かって飛ぶ。自分を信じれば、天に向かって飛ぶように実現する)  秦川舟自帰。(秦川の舟、おのずから帰る。宝を積んだ舟がもどるように、望みがかなう)  前途成レ好事レ。(前途、好事成る。いまやっていることが必ずいいことになる)  応レ得レ貴人推レ。(まさに貴人の推を得べし。人に推されて、よいほうに向かう)  第一句、生まれてから十五歳まで。第二句、十六歳~三十歳。第三句、三十一歳~四十五歳。第四句、四十六歳~六十歳。六十一歳より、本卦がえりで第一句にもどり、一句に十五年をかける。  したがって、小学生、中学生の君たちは、第一句の「一信向天飛」である。  「一信」は、「一心」であるから、君たちは、目の前のことに全力で取り組めばよい。  自分の目標に向かって、自分の可能性を信じて、一生懸命に取り組んでいけば、天に向かって飛ぶときが来る。大吉が実現する最大の条件が「信じること」なのだ。  もし、おみくじを引いて、凶だったら?  元三大師は通称で、観音様の化身といわれる良源のおくりなは慈恵大師という。おみくじが観音様を本尊にしている以上、凶を引いた人が言動を慎めば、「凶は変じて吉となる」のが道理である。つまり、おおもとは大吉だ。  じつは、くじを引く前の三百三十三回の呪文は、前もって、すべてのわるいことを妨げ、すべての望みをかなえるための呪文である。「おん はら た はん とめい うん。おん はん とま しん だ ま に しんば ら うん」  しかし、呪文などいらない。  君は君自身を信じよう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2018 November

自分の目標を思い描こう! You must dream your way.   寝ても、覚めても、自分の目標のことを思い描いている。いつも希望に満ちあふれていて、夢中でなにかに取り組んでいる。受験生であっても、自分の目標に向かって、自分の意志で一生懸命に取り組んでいる生徒たちの顔は、苦労の影など少しもなく、引き締まって輝いている。  中学受験生でも、高校受験生でも、大学受験生でも、そんな生徒たちと接するとき、「自分の目標に向かって全力で取り組むことは、自分の内側から可能性を引き出すことにほかならない。だから、彼らは輝いているのだ」という思いにとらわれる。  じっさい、そんな生徒たちを見てもらえれば、わたしのいうことが大げさでないことがわかるだろう。現在の取り組みに自分の意志がまっすぐに通っているから、彼らの学んでいる姿はきれいなのだ。もし自分の意志でなく、どこかの誰かに命令されたのだとすれば、彼らの姿や表情に弛みや翳りが見えてしまうだろう。受験生のだれもが、全力で自分の目標に取り組んで、大きな可能性を引き出すような学習ができることをわたしたちは強く願う。  さて、進学指導が中学校や高校でも本格化する。  志望校選択は、本来、自分の将来を考えて、自分にふさわしい学校を選ぶことだ。  ところが、多くの人たちは、君の「現在の学力」から判断して、君に学校選択を勧めるかもしれない。なるほど、受験まで数カ月ともなれば、どうしても現状を基準にしたくなる気持ちはわかる。 それでも、やはり、志望校は、君の将来を前提に選ぶべきである。君の将来につながる学校は一つではないから、第一志望校、第二志望校、第三志望校…と、あくまで君の将来につながる学校を選んでいく。  君の可能性は、現在の君より大きいのだから、現状にとらわれてしまうと、判断を誤ってしまうだろう。中学受験や高校受験では苦戦したものの、入学した学校で学力をグングン伸ばし、大学受験で第一志望校に合格している生徒たちは本当にたくさんいるのだ。彼らの共通項は、中学受験や高校受験を最終目的とせず、自分の将来を目標にしたことである。将来の目標を見定めていたので、それぞれの中学や高校に入学後、抜群の成績をおさめて、いろいろな中学や高校のパンフレットで成功の秘訣を語ったりしている。以前、星野学園のパンフレットに、一橋大学、お茶の水女子大学、 慶応大学に進んだ生徒たちが並んでいて、三人とも指導した生徒で驚いたことがある。彼女たち(また保護者)は、目先のことにとらわれず、将来を考えて、いくつか学校を選択していた。個性に合うこと、通学時間がかからないこと、学習時間が確保できることなど、さまざまな検討の結果、 星野学園を志望校の一つに選んだ。  受験は、「少年よ。大志を抱け」が基本である。現在の学力を基準に学校を選ぶのではなく、自分の将来にふさわしい、合目的的な学校を選ぶべきだろう。  君の「現状」は、過去によってもたらされたものにすぎない。君は未来に向かう存在であり、これからも目標に向かって成長する。「現状打破」が、君の毎日なのだ。  小さな目標でも、大きな目標でも、人は目標に向かって行動を起こす。  本気の目標がないとき、君の学習は散歩のような状態で、まだまだ道草を食いがちである。  本気の目標があるとき、君の学習はマラソンのような状態で、まっすぐにゴールに向かう。  志望校を決めるとき、まず自分の進む道を思い描いてみよう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2018 October

君の可能性の始まり The Beginning of Your Potency  前回、学習前の準備として、  ①まずゆっくり呼吸しながら体の力を抜いてリラックスする。  ②リラックスしながら、学習者として理想的な自分をイメージする。(らくらく問題を解いている姿でも、集中して取り組んでいる姿でも、好ましい自分の姿であればよい)  ③思い描いた自分の姿に対して「わたしはできる」と確信を持つ。(できるぞ、と理想の自己イメージに声をかけてもよい)  ということを書いた。さっそく、実践した生徒から質問されたので、答えよう。 (Q)「らくらく問題を解いている自分」「集中して取り組んでいる自分」はイメージできました。そして、その自分に「おまえはできる」と声をかけました。そうしてから、学習を始めたのですが、効果が上がっているのかどうかわかりません。今後、どうしたらいいのですか? (A)しばらくのあいだ、続ければ、効果がはっきりしてくる。理想の自己イメージにしたがって、実際に問題を解く。集中して取り組む。実際に行動を起こすことが重要なのだ。その行動自体も経験されるので、繰り返して続けることによって、さらに理想の自己イメージどおりの自分になっていく。いわば、セルフ・エデュケーションだね。  自己イメージと行動の関係を考究し、自然療法として実践するフェルデンクライス・メソッドの創始者であるモシェ・フェルデンクライス(1904-1984)は、「何年もかかってできあがった自己イメージにしたがって、誰もが、それぞれのやり方で、話したり、動いたり、考えたり、感じたりする。行動の仕方を変えるためには、自分の中に持っている自己イメージを絶対に変えなければならない」という。行動を変えるためには、現在の自己イメージを変えることがMUSTなのだ。  自己イメージは、静的なものではなく、動作、感情、感覚、思考によって成り立っている。  たとえば、歩きながら、サルをイメージすれば、君は次第に背を丸くして歩くようになる。(もしかしたらキーキー鳴いてしまうかも?)王様をイメージすれば、次第に胸を張って歩くようになる。泥棒をイメージすれば、抜き足差し足で歩くようになる。お嬢様をイメージすれば、内またで上品に歩くようになる。(実際にやってみよう。体がイメージに従うことに驚くはずだ)  さて、これまで学習の取り組みをいやがっていた君が、心機一転、リラックスして、すすんで問題を解くようにする。(解けない場合でも、前向きな気持ちで解こうとする)また、目の前のことに、集中して取り組むようにする。この行動自体が変化であり、これを繰り返して続けていると、この変化が習慣になってくる。変化が習慣として固定したとき、学習嫌いだった君は、どんどんと積極的に学習に取り組む君に変わったのだ。  いやいや学習に取り組んでいれば、それが習慣化して固定してしまう。(そして、学習が苦手な自己イメージができあがる)  気持ちよく学習に取り組んでいれば、それが習慣化して固定してしまう。(そして、学習が得意な自己イメージができあがる)  もし、いま学習が苦手で、これから得意になりたいのなら、これまでにできあがった自己イメージを絶対に変えなければならない。その方法の一つが冒頭の学習前の準備なのである。  フェルデンクライスの言葉を君の励ましのために一つ。  「僕が窮地にいるのを君は目撃した。そして、ここからが僕の可能性の始まりなのだ」 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2018 September

君は目標を達成できる! You can accomplish your goals!   中学2年生の夏期合宿のガイダンスで、学習前の準備の話をした。準備といっても予習や復習のことではなく、学習前のイメージ・トレーニングのようなものだ。  ①まずゆっくり呼吸しながら体の力を抜いてリラックスする。  ②リラックスしながら、学習者として理想的な自分をイメージする。(らくらく問題を解いている姿でも、集中して取り組んでいる姿でも、好ましい自分の姿であればよい)  ③思い描いた自分の姿に対して「わたしはできる」と確信を持つ。(できるぞ、と自己イメージに声をかけてもよい)  練習すれば、1分もかからない。たったこれだけのことで、学習効果が上がる。そして、何度もやっているうちに、学習前になると、無意識に学習の準備状態ができてしまう。論より証拠で、合宿中に試してみよう、と勧めた。  種明かしをすると、「リラックス状態」は、学習や練習の前に作らなければならない状態である。これから学ぶことや身につけることに対して、最初から緊張していたのでは、学習や練習を吸収することがむずかしい。また、緊張状態では思考が働きづらい(脳の扁桃体が優位になっている)ので新しい対象に集中することができない。集中力は、リラックス状態から生まれる。  「理想的な自己イメージ」は、学習に対するネガティブな気持ちを取り除く。ポジティブな自分を強くイメージすることによって、やる気分子と呼ばれる神経伝達物質ドーパミンが脳の前頭前野まで分泌され、学習への意欲が引き出される。  さらに「わたしはできる」と確信することによって、「理想的な自己イメージ」が現実的なものとして感じられるようになる。そして、しばらくのあいだ、しっかり取り組んでいると、実際にできるようになる。(なぜなら、人は、自己イメージを実現するように行動するから)  ところで、この逆のパターンとして、最近、スポーツ界のパワーハラスメントが大問題になっている。監督やコーチの暴力や暴言など威圧的な仕打ちは、どんな言い訳をしようとも、実質的には選手たちの能力を低減させてしまう。苦しい緊張状態、長引く嫌悪感、いたずらな自信喪失など、練習を無意味なものにするだけでなく、選手たちに心理的なダメージを与えてしまう。指導者として失格だ。  学習に関しても、同様の行動をとる人たちがいるかもしれない。しかし、君には目標がある。君の目標がもっとも重要なのであって、周囲の心ない言動に君の目標をつぶされてはいけない。「ひどいことをいうな」と思ったときには、静かに心を落ち着けて、「ぜったいに気にするな」と自分に言い聞かせよう。本気の目標は、どんな妨げにも打ち勝てる。  さあ、受験生をはじめとして、小学生も、中学生も、たくさん学習できる季節になった。生理学者によると、「春から夏にかけて」がスポーツの季節であるとすれば、「秋から冬にかけて」はまさしく学習の季節である。  学習にとりかかる前に、「リラックス」「理想的な自己イメージ」「できるという確信」(自分を信じるだけでよい)を心がけてみよう。  君の可能性は、君の学習によって大きくなるのだ。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2018 July

君は目標に向かって成長する! You will grow up to the goals!  人は目標に向かって成長する。目標があるから人は行動を起こし、その経験によって一廉の人物になっていく。途方もないことのようであっても、思い切って行動していけば、必ず成果は出るのだ。  明治時代に河口慧海(1866-1945)という僧侶がいた。彼は無銭でチベットにいくことを決心した。  彼の目標は、①わかりやすい経文を拵えたい。②そのためにチベット語を学びたい。③ヒマラヤ山中で修行して清浄妙法を専修したい。というものである。  もちろん、無銭といっても、海外に無一文で行くことはできない。出立にあたって、自費や餞別で六百三十円(当時)を集め、旅行の準備に百円あまりを使い、五百円あまりを持って旅立った。周りの人たちは、「彼は死にに行くのだ。馬鹿だ。突飛だ」といって嘲笑った。  明治30年、神戸からシンガポール、シンガポールからカルカッタへと船で渡り、そこから汽車でダージリンに到着。しばらくダージリンに滞在して、チベット語を学ぶ。チベット族の子どもや女性から俗語を学んで、半年後にはチベット語が話せるようになった。  明治32年、いよいよチベットに向けて出発。道はネパールにとる。カトマンズまでの行程で、泥棒に出会ったり、虎に出会ったり、旅籠の二階の風呂が崩壊したりしたが、災難は免れた。ヒマラヤ山中に入って、山賊に脅かされながら、ツアーラン山村に滞在。チベット仏教とともに、チベット族の不潔さに耐えることを学んだ。なにしろ、彼らは体中真っ黒で、年に2回くらいしか、体を洗わないようなのだ。また、モンゴル系の人々の短気に対しても、堪えに堪えて、「怒るということは馬鹿の性癖である」と悟った。  マルパ村に移動し、いよいよチベット国境を目指して、ネパール北部のヒマラヤ山脈、標高8,167 mのダウラギリ山を越えなければならない。  ダウラギリ山を越えるということを話すと、案内者は顔色を変えて、 「それはいけません。あんなところへは仏様か菩薩様でなければ行けやしません。行けば必ず死んでしまいます。そうでなくても猛獣のために食われてしまいますから、お止しなさい」  これまでの行路でも、雪山の嶮しい坂を攀じ登る途中、谷間に動物などの骸骨を見たりした。それでも、「わたしの目標は山の向こうにあるのだ」と説得すると、案内者は涙を流しながら立ち去った。ひとり、河口慧海は、雪のなかに踏み込み、岩陰に泊まり、磁石をたよりに北に進んでいき、ついにチベットとネパールの国境である雪山の頂上に到達した。  3年後にチベット国境を越えるという誓いを立てた明治30年から、ちょうど3年後に、河口慧海はチベット国境を越えたのだ。彼は、袋の中から麦焦がしの粉を出して椀に入れ、雪とバターを加えて捏ねた。それを唐辛子と塩につけて食べた。その旨さは、極楽世界の百味の飲食も及ばないほど、旨かった。 「雪中に座り込んで四方を眺めていると、なんとなく愉快というだけで、ただジーッと一人で考え込んでいるだけで、これからどちらへ出かけたらいいのか、サッパリ見当がつかない」  さあ、これからどうする?  河口慧海は、そこに座り込んで、「断事観三昧」(決めるためにじっと考える)を実行する。運を天に任せるのではなく、自分の存在を賭けて座禅をし、これからどうするか、答えを出すのだ。  これ以降の話は、河口慧海の『西蔵旅行記』(明治37年)にゆずるが、人が目標に向かうとき、先の見通しがなくとも、何かの決断が必要であれば、「断事観三昧」で答えが見えてくることを知ってほしい。目標が大きければ大きいほど、先のことなどわからない。どうなるかわからないから、大きな目標なのだ。  でも、本気で目標に向かっているならば、さまざまな壁に当たったときや、それぞれの頂上に達したとき、じっと未来の自分を考えると、つぎにやるべきことが見えてくる。  大きな目標に向かうことが、君の大きな成長につながるのだ。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2018 June

正義と識別と仁愛 Uprightness, Discernment and Love  浦和高校に進学した生徒が「将来、法曹界で活躍したい」という。つまり、裁判官、検察官、弁護士などになりたいということだ。「裁判官や検事や弁護士の精神って、なんだと思う?」と問いかけたら、ほんの 少し考えてから「法律の遵守ですか」と答えた。 「それだけじゃあ、人間がただの機械になってしまう。法学者の穂積重遠が浦和高校の生徒たちに語ったところでは…」と私の知ったかぶりを説明した。浦和高校の歴史を調べていたら、昭和11年に浦和高校が印刷して配布した穂積重遠(東京帝国大学教授・最高裁判所判事)の講演録があって、「いいことをいうなあ」と感心したところだったのである。  イギリスの秋の裁判期に行う祈祷式では、裁判官や弁護士が一緒になって祈るそうだ。  神よ。正しく、慈悲深い、全人類の裁判官よ。  人と人のあいだに正義を与え、無実の人を明らかにし、  判決を下し、罪人を罰するために、あなたが任命された従事者たちを  天より見守りたまえ。  あなたの聖霊、すなわち、正義の精神、識別の精神、仁愛の精神を授けたまえ。  大胆に、細心に、慈悲深く、聖なる義務を果たさせたまえ。  あなたの民とあなたの名の栄誉のために。  我らの主イエス・キリストをとおして、アーメン。  法の精神において「正義」「識別」は不可欠なものに違いないが、日本の法律家には愛が足りない、と穂積先生は指摘する。「根本に仁愛がなければ人間として完成しない。それと同じように、裁判においても、物をよく見分けて断然たる裁断を下すというだけでは本当の裁判ではない。その根本に真に人を愛し、人を救う仁愛の気持ち、すなわちLOVEがなければ裁判は理想的であり得ない」  正義と識別と仁愛の三つが揃わなければ、裁判はできない。裁判だけではなく、人間そのものも完成されない。  穂積先生は、浦和高校の生徒たちに強く訴えて、 「諸君。高等学校を終えて大学に来ると、法律、理学、医学というように、それぞれ専門の道に進まれますが、根本が充分にできていないと、ただの機械になってしまう。人間がただの機械になってはいけないのであります」 「大学の専門に行くと器物になりやすい。ややもすれば道具になり、機械になりやすいから、その根本をつくるのが高等学校の教育であります」 「諸君の心を悩ますことは大学の入学試験であるかもしれません。しかしながら、そんなことに心を悩ましていては、せっかくの高等学校が乾燥無味なものになると思います」 「高等学校で本当に人物を作り、見識を養うことが諸君をして赤門をくぐらせる所以であります」  当時、穂積先生は、東京大学法学部長なので、大学という代わりに赤門(東京大学)と表現している。  講演の最後に、「今日の世の中では、目的と手段の関係がうまくいっていない。目的のために手段を選ばずという考えは非常に間違った考えだ。教育は手段ではない。本当に人物を磨いて一人前になることが必要で、今日を立派に活きうること、学問そのものに興味を持って勉強することが諸君の本務だ」とくりかえし強調している。この考え方は、現在の浦和高校にも通底している。過去から現在まで、浦和高校から多くの人物が出ていることは必然であった。  正義、識別、仁愛の揃った人物になるために、己を磨くことが根本である。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2018 May

たのしく取り組もう! Learning is Fun!  小学校の低学年の生徒たちに、「足し算が好きか、引き算が好きか」と聞くと、「引き算が好き」という答えが多い。理由は、足し算は数字がどんどん大きくなっていくが、引き算は数字が小さくなっていくからだ。低学年にとって、数字が小さくなっていくほうが感覚的に楽なのだろう。  ところで、かれらが身につける「かけ算の九九」は、中国で始まった。  唐の時代の『孫子算経』という算数の本では、「九九八十一」から「一一如一」まで九九の計算が展開されている。『孫子』では、兵馬の数、武器の数、糧食の量、日数などを計算して戦争の勝敗を予測することを廟算といって重んじているので、数字に弱い軍師や将軍ではそもそもだめなのだ。斉の国(BC1046-BC386)の桓公が「九九之人」を尊んだことも中国の歴史書に記されている。(事実だとすれば、紀元前から九九があったことになる)  日本では鎌倉時代後期の『拾芥抄』に、「九九」という項目を設け、「九九八十一。八九七十二。七九六十三。六九五十四。五九四十五。四九三十六。三九二十七。二九十八。八八六十四。七八五十六。六八四十八。五八四十。四八三十二。三八二十四。二八十六。七七四十九。六七四十二。五七三十五。四七廿八。三七二十一。二七十四。六六卅六。五六三十。四六二十四。三六十八。二六十二。五五廿五。四五廿。三五十五。二五十。四四十六。三四十二。二四八。三三九。二三六。二二四。一一二※原文ママ」と記している。「一一二」は活字のまちがいかと思ったが、写本を見ても「一一二」であった。  現代とちがって、中国も日本も九九から数えて、数字が小さくなっていくのは、小学生たちと同じ感覚なのかもしれない。  九九の項目の前は、物充(重さ)の単位で、「六銖を一分となす。四分を一両となす。十二両を一屯となす。十六両を一斤となす…」とある。  こうやって過去の書物を見ていると、ずいぶん長い間、わたしたちが数字や単位を使いこなしてきたことがわかる。過去から現在まで、軍事、交通、貿易、土木、水利、農業、産業などが発達すればするほど、算数・数学の学習が必要不可欠になってきた。算木や算盤(さんばん、が転訛して、そろばん)の発明から計算機やコンピューターの発明まで、わたしたちは数字とともに生きてきた。  数学史や和算の研究家である三上義夫博士(1875-1950)の講演の筆記を読んでいたら、  「日本の数学者は遊戯的にやる。自分らが数学をやるのは、碁、将棋をやるのも同じである。親には叱られ、友だちには笑われ、人に隠れて習いに行く。そういうことは、和算家の古老たちがよく言っておりました」とあった。  江戸時代から明治時代にかけて、数学に熱心に取り組んでいた人たちは、現在、ゲームに夢中になっている人たちと同様に、親に注意されたり、友だちにからかわれたりして、肩身の狭い思いをしていたようだ。(君たちがどんなにゲームに熱中しても誰もほめてくれないだろう?)それでも、誰になんと言われようと、数学が大好きだから、どうしてもやめられない。日本独自の数学、和算が発達したのは、日本でゲームが発達したのと、まったく同じ原動力のおかげであった。  ゲームがない時代、数学はゲームのようなものであった。碁や将棋のように夢中になるものであった。そうわかれば、算数、数学が楽しいものに思えてくるだろう。  どんな学習も学問も「好きこそものの上手なれ」である。  さあ、楽しく取り組もう。 学院長 筒井保明