わたしはわたし。君は君。

I am what I am. You are what you are.

 学習するときにも、練習するときにも、目標を決めるときにも、まず「自分であること」が重要だ。
 教育の世界では「個の確立」というのだけれど、いいかえれば「わたしはわたし。君は君」ということである。詩人の金子みすゞの言葉を借りれば、「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」ということだ。
 人は、小さなことにこだわる人ほど、他人と自分を比較する。ほんとうは優劣などないのに、うぬぼれてみたり、がっかりしてみたりする。自分には自分の目標があるし、他人には他人の目標がある。目標が重なれば、そこに競争が生まれることがあるけれど、それでもそこに優越感や劣等感を生じさせてはいけない。自分は自分でしかないし、自分は他人にはなれないのだから、自分をかえりみるときは「わたしはわたし」なのだ。他人に自分の行動や感情を振り回されると、君は、自分からも、自分の目標からも、はるかに遠ざかってしまう。
 禅宗で使われる公案に「拈華微笑」という話がある。
 「インドの霊鷲山で、お釈迦様が花をひねって、みんなに見せた。このとき、みんなは沈黙してしまった。ひとり迦葉尊者だけ顔をほころばせて微笑した。お釈迦様は、わたしには正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相など、微妙の法門があるから、不立文字、教外別伝で、これを迦葉に授けよう、といった」
 解釈すれば、「真理を見る目、苦悩のない心、空の世界という法門は、非言語的なもので、以心伝心である。お釈迦様が花をひねったとき、ほほ笑んだ迦葉には、この法門を授かる資格がある。沈黙したみんなは、お釈迦様が花をひねった意味を悟れなかったので失格である」ということだろう。
 この公案に対して、「悟りは言葉にできない。お釈迦様が花をひねった意味がわからなかった。わたしは失格だ」と劣等感を抱いた弟子がいたとすれば、それは比較の罠に落ちているのだ。あくまで「彼は彼、わたしはわたし」である。
 無門慧開(1183-1260)は、この公案に屈せず、
 「黄色の顔のゴータマ(お釈迦様の姓)め。人もなげに、良い人たちをばかにして、羊頭をかかげて狗肉を売っているようなものだ。(看板に偽りありで)なにかましなことがあるか。もし、みんなが笑ったとしたら、いったいどうしたのだ? 迦葉も笑わなかったとしたら、いったいどうしたのだ? もし法に伝授ということがあるなら、人をたぶらかしている。もし伝授ということがないなら、迦葉に授けることなどできるのか?」
 仏教の考え方でいえば、「諸行無常(あらゆる現象は無常である)、諸法無我(あらゆる事象は無我である)」であるから、そもそもお釈迦様が迦葉だけを選んで教えるはずがない。法は、その場にいる全員に開かれている。
 どのような場面でも、「わたしはわたし。君は君」である。ドライな感じがするかもしれないが、人生の選択の基本は自分だ。いつも付和雷同(安易に他の説に同調したり賛成したりすること)するような人は、やがて自分を失ってしまうだろう。
 受験生のみんなは、お互いに励ましあえばよい。一人ひとりが受験生であり、それぞれの目標を持ち、自分のベストを尽くしている。みんなちがって、みんないい。

学院長 筒井保明