そろばんが開く未来
渋沢栄一の『論語と算盤』の話を続けますと、渋沢のいう算盤は、「経済」という意味です。論語は、「道徳」という意味です。渋沢は、「論語と算盤を一致させる」という立場ですから、道徳の「徳」はそのまま「得」であり、経済は「徳=得」の道だ、ということです。
経済は「徳=得」の道、というようなことは解説書には書いてないかもしれませんが、渋沢栄一自身の本を読むかぎり、わたしはそう確信しています。
渋沢自身も「学者は誰も言わないけれど、論語を読むかぎり、孔子は理財に通じていたと、わたしは判断する」といっています。わたしも、渋沢の言葉から、「徳=得」の道を歩んだのが渋沢の人生であったと考えます。
2021年の大河ドラマの主人公は渋沢栄一だそうですから、「徳=得」の道、を念頭に置いて、ドラマを見るのもおもしろいでしょう。
さて、むずかしい理屈は抜きにして、渋沢栄一は、どんな少年だったでしょうか。
まず注目すべきなのは、たいへんな読書家であったこと。8歳から塾に通い、『論語』をはじめとして漢籍に親しみます。また、13歳のころ、道を歩きながら『絵本三国史』を読んでいて、溝の中に真っ逆さまに落ちました。
14歳になると、稼業の商売を始めました。紺屋(染め物屋)が染め物に使う藍玉などを商っていたようです。買い入れた藍を掛け売りしていましたから、掛け金の回収もあります。とうぜん、そろばんを弾きました。
17歳、奉行所から御用金400両の通達。このときの役人の態度に反骨心が沸き上がりました。
20歳、江戸末期の世相を見て、商人から武士になることを決意。
やがて渋沢栄一は、志士となり、縁あって一橋家に奉公し、四石二人扶持の武士となりました。
28歳、フランス・アメリカの視察に随行中、大政奉還が起こり、急遽、帰朝し、徳川家の財政を整理しました。
明治政府の建設とともに、太政官となり、大蔵省租税正に任ぜられ、明治4年、大蔵省に西洋式簿記を導入し、伝票によって金銭を出納しました。(伝票算は、全珠連の珠算検定では、3級以上の選択種目)
明治6年、自分の意見が採用されず、意見書を提出して、政府の職を辞しました。
これよりのち、あくまで民間の実業家として、活躍したのです。
かんたんに経歴をふりかえっても、論語と算盤が、渋沢栄一の根幹であることがわかりますね。
もし渋沢栄一に、論語だけで、算盤がなかったとしたら、商人になることも、徳川家の財政を整理することも、大蔵省租税正になることも、西洋式簿記を導入することも、銀行家になることも、なかったのではないでしょうか。
『論語』は渋沢栄一という人格をつくったといえます。おなじように、算盤は渋沢栄一の未来を開いたといえます。
渋沢栄一が生きている当時の評者は、「算盤を投じて剣をもった国士が、今度は剣を捨てて算盤を事とし、実業家たらんと志した」といいました。渋沢栄一ほど、褒められるばかりの大実業家はほかにはいないでしょう。
みなさんのそろばんは、みなさんの未来をどのように開くのでしょうか?
学院長 筒井保明
掛け売りとは?
注文を受けて商品を納品、後から代金が支払われる仕組み。江戸時代から現在まで利用されている文化です。