Archive List for 学院長

学院長からのメッセージ 2015 May

ゆっくりと急げ! Festina lente! Make haste slowly.  「ゆっくりと急げ」という格言がある。ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(B.C.63-A.D.14)が好んだ言葉で、ラテン語でフェスティナ・レンテと読む。Festina⇒Make haste(急げ)、Lente⇒slowly(ゆっくりと)である。  「ゆっくりと急げ」などというと、君たちは、「急ぐときでもあわてるな」とか、「落ち着いて急ぎなさい」とか、あるいは、「急がば回れ」などと考えるかもしれない。言葉は状況の中で意味が変化するから、どれも正しいのだけれど、「ゆっくりと急げ」を体現して見せたのが、イソップ物語の亀である。  「野兎が亀の遅い歩みをからかって、自分の足のスピードを自慢した。亀は競走を持ちかけて、勝ってみせるよ、といった。じゃあ、勝負だ。  狐が審判になって、彼らは走り出した。野兎は風のように駆け出して、ずっと前方で、笑いながら亀が見えるのを待った。ずいぶん待っても亀が見えないので、『勝負は決まったな、道端の草の上で一眠りしよう』といった。一方、亀は、止まらずに、着実に、ゆっくりと走り続ける。  野兎が目覚め、驚いて、道を駆け下りた。でも、遅かった。ゆっくりとした亀は、最後のラインを越え、競走に勝った。  教訓:長い道のりでは、ゆっくりでも確実なことが、最も速い方法だ」(『イソップ物語』より)  誰もが知っている話である。君たちがここで注意しなければならないことは、「ゆっくりと」には「確実に」の意味が込められているということだ。  このイソップの寓話は、目標を達成する方法を示している。たいていの目標には期限が付いているから、私たちは「急がなければならない」のだ。受験生ならば、痛切にそう感じているだろう。でも、最初の勢いばかりで、野兎のように油断してしまうと、目標にはたどりつかない。世にいう三日坊主とは、この野兎のことである。  亀は、野兎に対して「勝ってみせるよ」といった。誰が見ても勝てるはずのない勝負である。じつは、このとき、亀が見ていたのは、目標と目標に到達する自分のことだけで、野兎など、そもそも眼中にない。(もし、野兎に関心があったら、遠く走り去っていく野兎を見て、自分が走ることをあきらめただろう。また、油断して寝ている野兎を追い越すとき、感情を動かしたはずだろう。)  野兎のことなど一切気にせずに、亀は、目標を達成するために、ゆっくりと走り続けた。  亀は、目標を持ち、目標を達成しようとする人の象徴だ。  野兎は、やみくもに走り出し、途中で歩みを止める人の象徴だ。  さて、「ゆっくりと急げ」という格言を念頭に、フランスの作家ラ・フォンテーヌが「野兎と亀」を書き直した。もちろん、野兎は亀を大きく引き離し、途中で、余計なことに興じて、居眠りを始める。一方の亀は、出発し、コツコツと努力し、ゆっくりと急いだ。  勝った亀が、最後に次のようにいう。  「わたしが正しかったでしょ。速度が役に立ったかしら? わたしの勝ちね。そのうえ、もし、あなたが家を背負っていたら、どうなっていたかしら?」  亀のいう「家」が比喩なのか皮肉なのかわからないけれども、「ゆっくりと急げ」の意味は理解できるだろう。目標に向かって出発したら、君たちは、ゆっくりと急がなければならない。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2015 April

やる気は、君のなかにある。 Do you have motivation?  「先生、どうしてもやる気になれないのですが、どうしたらいいのでしょうか?」  1学期が始まって、「この学年こそ成功の一年にするぞ」と誓っている生徒たちが、なぜか、やる気になれないという悩みを持って、相談に来る。  「やりたい」と本気で思っていれば相談に来ないのだが、「やらなければならない」という義務感になってしまっている生徒たちは、その義務を重く感じて、なかなか、やる気になれない。やりたいゲームはいくらでもできるのに、やらなければならない学習は「元気」を挫いてしまうわけである。  そもそも「やる気」って、なんだろう?  「気」がつく熟語や慣用句は、ちょっと調べればわかるように、とても多い。  もともと「気」とは、「物より発する微妙不可思議なもの」である。幸田露伴の説によれば、「その物の気は、即ちその物の本体と同一にして、あたかも本体の微分子なるがごとく、(中略)気あれば必ず物あり、物あれば必ず気あり、気と物と相離るれば即ち物すでに物たらず、物と気と相失えば即ち気すでに気たらず。」である。  水の上に手をかざせば、湿り気を感じる。火に手をかざせば、熱を感じる。これも「気」である。露伴先生は、「気」に相当するやまとことばは「にほひ」(色、声、光、容姿など、その物から感じられるものは、すべて「にほひ」)だという。天に天の気、山には山の気、海には海の気、酒には酒の気、茶には茶の気、軍隊には軍隊の気、春には春の気、人には、人の気があるのだ。(一切万物に一切万物の気あり)  さらに、やまとことばで「気」は、「いき」。「いき」は、「いのち」となり、「いぶき」となり「いきおい」となり、「いきる」「いきりたつ」「いきつく」「いきごむ」「いきまく」などとなる。  つまり、生きている君自身が発するものが「気」であり、「やる気」とは、なにかをやっている君自身の「気」のすがたのことだ。だから、「やる気」を感じるのは君自身でなく、君を「やる気のある生徒だなあ」と見る他の人たちである。  最初の質問に答えれば、君がなにかをやらないかぎり、「やる気」は存在しない。君がやる気になれないのは、「やりたい」と思えないからで、「やらなければならない」と重荷に感じているからだ。「やらなければならない」は、「できればやりたくない」を引き起こしてしまう。「やりたい」と思えば、放っておいても、やる気になってしまう。  まず「やる気になれない」ときには、もう一度、目標を見直してみよう。そして、自分に問いかけるのだ。「これは、本当に自分が達成したい目標なのだろうか?」  じっくり考えて、「やっぱり、達成したい!」という自分を発見できれば、誰かに背中を押されなくても、君は、自然に学習に取り組んでしまう。  「やりたい!」⇒「なにもいわれなくても、自分から取り組んでしまう」  これが、「やる気」の正体だ。  しっかり目標を持つことができれば、5月病など、どこ吹く風である。  元気に前進していこう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2015 March

「温故知新」に未来の答えがある。 Gain new insights through restudying old material.  小学校、中学校、高校で、新年度が始まる。  書店には、辞書、参考書、問題集、学校案内、ノウハウ本など、おびただしい学習関連・受験関連の書籍が積み上げられている。  立ち寄って眺めてみるけれど、購入したくなるような本はわずかだ。  学習関連・受験関連の書籍は、入れ替わりが激しく、古いものが新しいものに取って代わられている。しかし、毎年、「まてよ」と思う。かつて私が感動した名著は、書店に並べられることがない。  『論語』の一節に、「温故而知新。可以爲師矣。」とある。学校教育的には、「ふるきをたずねて、あたらしきをしれば、もってしたるべし。」と読む。しかし、唐話(中国音でそのまま読もう)を主張した荻生徂徠(1666-1728 漢学者)の弟子たちは、当時の唐音で※「ウヲンクウル、ツウスイン…」(温故而知新)と読んだろう。いまだに学校では漢文訓読法を実施しているが、私は、漢文を教えはするけれど、できれば荻生徂徠に従いたい。江戸時代、川越の顧問でもあった荻生徂徠は、漢文訓読法という不自然な方法がいやだったのだ。  この不自然さは、翻訳作業のような、現在の英語学習にもいえる。英語教育に関する話題が依然としてかまびすしいけれども、ほとんど結論は出ていると思う。  英語教育に関していえば、多摩大学名誉学長のグレゴリー・クラーク氏の言っていることが正しいと私は考えている。クラーク先生の『英語勉強革命』という著書からポイントを抜き書きしてみよう。  「語学は“聞く”ことに始まる」  「Use it or lose it.(使わなければ、失ってしまう)」  「日本人は語学に関して努力不足」  「外国語を覚えようとしたら、その言葉を意識、無意識の両方の領域に入れなければならない」  「文字を見ずに一生懸命に何度も聞く」(聞き流さない!)  「自然会話をする」  「耳できいた文章をテキストを見ながら音読する」  「言葉は無意識レベルで覚えなければならない」  「カタカナ英語は厳禁」  「発音は耳で覚える」  古代トロイアの遺跡を発掘した考古学者のシュリーマンも、日米和親条約の締結に尽力したジョン万次郎も、語学習得の方法は、結局のところ、変わらない。  「温故知新」という言葉を噛みしめるとともに、新しい学年でたくさんのことを学んでいこう。 ※当時の唐話の本による推測。 学院長 筒井保明