Author: 八木雅彦

学院長からのメッセージ 2020 March

挑戦と失敗 Trial and Error  プログラミング教育が世界中で始まっている。日本でも遅ればせながら始まるけれど、うまくいくだろうか。  プログラミング教育に必要なのは、まず生徒一人ひとりの想像であるから、あらかじめ用意された答えにたどり着くような教え方では、生徒たちの能力は育たない。プログラミングの学習は、基本として自立的な学習であり、トライアルとエラーをくりかえしながら、自分で会得していくものだ。  小学校の教科でいえば、図画工作のデジタル版であるといってもいい。  この大前提に立って、授業が行われるならば、プログラミング教育はうまくいくだろう。  プログラミングは、21世紀型スキルとして、生きていくために必要な教養であることはまちがいない。  文部科学省の「小学校プログラミング教育の手引き」の言葉を使えば、「論理的思考力」「創造性」「問題解決能力」「プログラミング的思考」を育成することがプログラミング教育のねらいであるけれど、もっと率直に、「プロジェクトprojects、情熱passion、共有peers、プレイplayを通して、創造力creativityを養うこと」というMIT(マサチューセッツ工科大学)でスクラッチ開発グループを率いるミッチェル・レズニック博士の表現のほうが、プログラミング教育にはぴったりくる。  プログラミング教育の要は、創造力なのだ。なぜなら、想像を実際に働く形にするのが創造力であり、プログラミングは創造の方法であるからだ。  レズニック博士は、論理的思考とはいわず、創造的思考(creative thinking)という。その創造的思考を培う子ども用のアプリケーションやハイテク玩具がほとんどなかったので、ビジュアルプログラミング(スクラッチ)を開発したのだ。  文部科学省がプログラミング教育に採用しているのも、このビジュアルプログラミングである。また、手引きを読んでいてほっとしたのは、「試行錯誤」という言葉をくりかえして使っていたことである。日本の学校教育に不足していたのが、この「試行錯誤」であり、「まちがえないこと」を重視して、「まちがえること」を大切にしてこなかったことが、わたしたちの創造力を減退させたのかもしれない。  人は、記憶の原理として、まちがいを手引き(インデックス)にして学習するのであるから、「試行錯誤」の経験は学習そのものである。プログラミング学習では、自分が想像したプロジェクトを実現するために、なんども試行錯誤をくりかえすだろう。そして、その試行錯誤の過程で、論理を組み立てること、問題を解決すること、予期した結果を出すことなど、プログラミング教育のねらいが達成されるのである。  ところで、レズニック博士のスクラッチ開発グループの名前は「ライフロング・キンダーガルテン」(生涯続く幼稚園)という。名前の由来は、「急変する社会を生きぬくあらゆる年代の人々にとって、創造的能力を広げるためには、幼稚園スタイルの学習が求められる」ということだ。  幼稚園の開祖は、ドイツの教育学者フリードリッヒ・フレーベル(1782-1852)。レズニック博士の使う「創造力」という言葉は、フレーベルの教育方法の要でもある。フレーベルは、教室方式(講義方式)でなく、環境に働きかける遊びや作業を重視した。  プログラミング教育は、教室方式ではむずかしいかもしれない。スタートは一人ひとりの想像であり、その想像を一人ひとりが試行錯誤しながらプログラムするからだ。  創造力(モノをつくる力)は、挑戦と失敗によって、養われる。「試行錯誤」を恐れてはいけない! ※図は、Lifelong Kindergarten by Mitchel Resnick (The MIT Press 2017)より。 学院長 筒井保明

新型コロナウイルスに関連した感染症対策に関する対応について

授業の実施  3月2日以降、当社の授業・学童は原則、通常通り実施いたします。  ご家庭の判断でお休みされる場合は、大変お手数ですが教室まで欠席のご連絡を頂けますようお願い致します。 ※今後、感染が拡大した場合には発生地域の各校は、行政機関からの要請に従い、休校を含む必要な措置をとることもございます。 イベントの中止  新型コロナウイルス感染拡大による大規模イベントの自粛要請を受け、3月14日に坂戸文化会館で予定していた公開講座は延期とさせていただきます。  ご来場を予定されていた皆様には大変ご迷惑をおかけしますが、状況が落ち着きましたら再度ご案内をさせていただく予定です。なにとぞご理解を賜りますようお願いいたします。  各教室等で実施する小規模なイベントにつきましては、十分な感染防止措置をとった上で開催する予定でおりますが、今後の感染の広がりや、公的機関の指示・要請に基づき、変更させていただく可能性がございます。あらかじめご承知おきください。 新型コロナウイルス感染症について  水と石鹸による手洗いを頻繁に行いましょう。特に外出先から帰宅した後や咳をした後、口や鼻、目などに触る前には手洗いを徹底しましょう。  咳やくしゃみをする場合には、ティッシュやハンカチなどで口と鼻を覆い、周りの人に気をつけましょう。使用後のティッシュはすみやかにゴミ箱に捨て、 水と石鹸で手を洗いましょう。  発熱等のいわゆる風邪症状が見られる場合は、無理をして通塾せず、自宅で休養をとりましょう。

そろばん通信|2020年3月号

珠算式暗算は脳の働きを高める②  珠算式暗算は、前頭前野でそろばんのメンタル・ピクチャアを操作することです。  前頭前野の働きが人の知能ですから、珠算式暗算は、実効性のある脳トレであるといえます。脳トレのソフトウエアはいろいろありますが、算数的能力・数学的能力をつちかうには、やっぱり珠算式暗算です。  昭和の初頭、名古屋市新道尋常小学校校長の榊原孫太郎先生が珠算と珠算式暗算を児童たちに指導しました。その実践に基づいて、昭和七年に『一元的算術教育』を出版します。なにごとも論より証拠ですから、この書物に書かれていることは貴重です。  榊原先生の意見をみなさんにわかりやすいようにまとめてみましょう。 『暗算には、能力暗算と珠算式暗算のふたつがあります。小学校で課せられるのは能力暗算ですが、覚えるまでに労力と時間がかかるうえに、数が大きくなると、けっきょく珠算か筆算にたよるしかありません。ですから、能力暗算は、実用向きとしては不便なのです。  珠算式暗算は、脳に思い描いたそろばんを使って計算する方法です。そろばんを抽象的にイメージして計算しますから、実際にそろばんを使って計算すること以上に、正確に速く、五六桁以内の加減乗除はかんたんです。  おどろく人もいますが、そろばんを弾くことができる人であれば、だれでも可能ですし、難しいことではありません。暗算の練習をしていないから、できないだけです。  ためしに目を閉じて、そろばんを思い浮かべて、2+3の計算を思い描いてみれば、おぼろげであっても梁(はり)の上の五玉を下ろし、梁の下の玉二個を払って、5という答えを得るでしょう。  珠算式暗算の基礎は、数をそろばんの形にして脳に思い浮かべることです。手始めに、残像を利用しましょう。たとえば、そろばんに二十六と置いて、約三十秒、これを注視して、目を閉じれば残像が残ります。(脳の記憶域のワーキングメモリーの働き)この残像を維持しながら、計算していくと、順次、玉の変化したそろばんのイメージが頭に残ります。答えは、脳に浮かんでいるそろばんを読めばいいのです。一学期のあいだに、四桁・五桁くらいのイメージができるようになります。  そろばんのイメージの確かさをチェックするためには、たとえば、3467を脳に描いたそろばんに置き、それを下の桁からいわせると、7643といえますし、基数の和を問えば20と答えられます。そろばんを脳に描けているならば、かんたんです。  じゅうぶんにイメージ練習ができたならば、一桁の補数練習、二桁の補数練習を行い、加法の練習から始めましょう』(以上、引用および書きかえ)  このあと、人の記憶に、視覚型、聴覚型、筋肉型、混合型等があることが説明され、榊原先生の実践では、多くの児童が視覚型と筋肉型の混合であったことが報告されています。筋肉型というのは、空中にそろばんがあるかのようにイメージして、手指を動かしながら暗算するタイプのことです。  児童たちのうち、視覚筋肉両型の混合型がもっとも上達したようです。そういっても、手指を動かすような動作は初歩のうちで、熟練した児童たちは、よそ見をしながらでも、笑いながらでも、落書きをしながらでも、正確に、敏速に計算していて、外から見ただけでは計算しているように見えなかったようですから、たいしたものです。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2020 February

もっとすごい自分になる! Be Your Better Self.  目の前に自信を失っている生徒がいたら、それがだれであっても、どんな状況であっても、無条件で「君はできるのだから、やってみよう」と励ます。「自分はできる」と信じれば、だれでもできるようになるからだ。  もちろん、効率的な学習習慣や効果的な学習方法など、具体的なことも教える。  けれども、「自分はできない」と思い込んでいるとき、どんな方法も役に立たない。思い込みの極端な例が強迫観念で、やる前から「できないとばかにされる。できないと叱られる」と恐れや不安を感じておびえてしまう。このとき、脳の偏桃体がネガティブな感情を増幅して、情報処理をつかさどる脳の海馬の働きを妨げるので、けっきょく学習することができない。  たとえば、アルプスの少女ハイジは、文字が読めなかった。令嬢クララの家庭教師が必死に学習を詰め込もうとしても、ハイジは学習を吸収することができなかった。なぜなら、羊飼いのペーターに「文字を読むことはできないよ」と何度も何度もいわれたので、「文字は読めない」という思い込みが根付いてしまっていたからだ。家庭教師も「この子には無理だ」と思いながら教えていた。  家庭教師から「ハイジは学ぶことができない子どもだ」と報告されたクララの祖母は、「ハイジはかならず読めるようになる」と反論した。  クララの祖母は、笑顔でハイジに近づくと、アルプスに関する絵本を手渡して、まず「読みたい」という気持ちをハイジから引き出した。そして、「読むことはできる」という確信をハイジに与えてから、読むことを教えた。すると、ハイジは、みるみるうちに本が読めるようになった。  ハイジの学習を妨げていた思い込みをメンタル・ブロックという。「自分はできない」という思い込みがメンタル・ブロックだ。  学習にかぎらず、スポーツでも、芸術でも、「自分はできない」というメンタル・ブロックが最大の障害物である。「できないこと」は、だれでもいやになる。いやになったら、やりたくなくなる。やりたくないことは、なかなかできるようにならない。遅かれ早かれ、多くの人たちが「できないこと」から逃げ出してしまう。  クララの祖母がすばらしい教育者であることは、最初に「読みたい」という気持ちをハイジから引き出したことでわかる。だれでも、やりたいことは、進んでやるだろう。この自発性が、学習のカギだ。  つぎに、「かならずできる」という確信を与えたことも重要だ。教師が「この生徒はかならずできる」という確信を持っていれば、目の前の生徒も「わたしはできる」と自然に確信できる。これは非言語的な要素なので、口先で「君はできるよ」といってもあまり効果はない。クララの家庭教師は「ハイジには無理だ」と思って教えているから、ハイジはできるようにならなかった。クララの祖母は「ハイジはできる」と確信しているから、ハイジはできるようになった。ハイジがメンタル・ブロックを外すことができたのは、クララの祖母の確信度のおかげである。  わたしたちは、君たち一人ひとりがかならずできるようになると確信している。  「もっとすごい自分になる!」(Be your better self.)というのは、新年度のテーマの一つだ。君たちは成長過程にあるので、君たちのベストはまだまだ未知である。現在の君より、未来の君はもっとすごい君であるはずだ。  「できる」という確信をもって、しっかり取り組んでいこう。 学院長 筒井保明

そろばん通信|2020年2月号

珠算式暗算は脳の働きを高める。  鉛筆やそろばんを使わない計算を暗算といいます。  鉛筆を使わない暗算には、九九や円周率や平方根の数の暗記から、基礎暗算、実用暗算、補助暗算、予備暗算のような種類があります。なんども練習して覚えるので、能力暗算ともいわれますし、暗記的計算ともいわれます。  ちなみに、英語圏の学生は、円周率の近似値を覚えるのに、Yes, I know a number.(はい、数字を知っています)と覚えます。アルファベットの数を数えれば、Yes, (3.) I (1) know (4) a (1) number (6) で、3.1416 ですね。  いっぽう、珠算式暗算は、頭にそろばんを思い浮かべて計算することです。  ちょっとそろばんを思い浮かべてみてください。そうして、そのそろばんの玉を弾いて計算してみてください。  一+三=  四+六=  一〇+一五=  二五+三二=  ふだん、そろばんをしっかり練習しているみなさんなら、きっとできるはずです。  さて、みなさんが思い浮かべたそろばんのことを、神経科学の世界では、メンタル・ピクチャア(mental picture ・心的イメージ)といいます。  実物を見たことがあれば、かんたんです。  つぎの言葉を思い浮かべてみましょう。  いぬ  ねこ  かえる  おかあさん  そろばん  どうですか。  思い浮かびましたか。  メンタル・ピクチャアは、自分が好きなイメージでかまいません。「いぬ」がブルドッグであっても、チワワであっても、セントバーナードであってもいいのです。  いぬを思い浮かべたら、そのいぬを走らせてみたり、ジャンプさせてみたり、骨をくわえてもどらせてみたりしてください。  できましたか。  ねこでも、かえるでも、おかあさんでも、そろばんでも、おなじようなことができるでしょう。ねこなら、ねむらせてもいい。かえるなら、およがせてもいい。おかあさんなら、料理をしてもらってもいい。そろばんなら、パチパチと音を立てながら指で玉を弾いてもいいでしょう。  メンタル・ピクチャアを思い浮かべて、それを動かすのは、脳の前頭前野の働きです。この働きを強めることができると、みなさんの記憶力や学習能力はグンと高まります。  パソコンやパッドの画面でそろばんを操作するソフトウエアもありますが、わたしは推奨しません。  実物のそろばんを使って計算し、そのそろばんをメンタル・ピクチャアとして思い浮かべて計算(つまり暗算)することのほうが、脳のトレーニングとしてもっと有効でしょう。なぜなら、ふだん実物のそろばんを使って練習していますから、視覚だけでなく、聴覚も、触覚も、そろばんを舐めたり嗅いだりすれば、味覚や嗅覚もイメージに参加することができるからです。当然、メンタル・ピクチャアの臨場感が強くなりますから、みなさんはリアルにメンタル・ピクチャアのそろばんを操作することができるでしょう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2020 January

自分を尊重しよう! Raise Your Self-Esteem!  教育の世界に、セルフ・エスティームという言葉がある。「自尊心」という訳語が当てられるけれど、「尊」という文字は正確な意味をあらわしていない。セルフ・エスティームとは「自分の価値を見積もる」ということだから、自分の価値を高く見積もるか、自分の価値を低く見積もるかで、言葉の意味が大きく変わってしまう。君たちに必要なのは、もちろん、高いセルフ・エスティーム(自尊心)である。  人生のさまざまな局面で、君たちは心ない言葉に傷つけられるだろう。  「こんなこともできないのか」  「ひどい成績だ」  「君の力では無理だ」  こういった否定的な言葉は、君たちに跳ね返す力がないと、君たちの自己イメージをどんどん低いものにしてしまう。やがて、君たちは、価値の低い自分になってしまうのだ。いいにくいことだけれど、「自分はだめだ」と思い込んだ小学生や中学生が、相対的によくない小学生や中学生になって周囲を困らせるようになる。本当は、だめな小学生や中学生など存在しないのに!  まず、大前提としていえるのは、君たちの存在そのものが絶対的な価値であるということだ。お釈迦様なら、「天上天下唯我独尊」(自分には絶対的な価値がある)というだろう。  そもそも世界と君たちは不可分であるから、君たちの価値が上がれば、その分、世界はよくなるだろうし、君たちの価値が下がれば、その分、世界はわるくなるだろう。「私たちが世界」We are the worldなのだ。  さて、君たちの存在が絶対的な価値である以上、誰かが発する、君たちを低める言葉を聞く必要はまったくない。君たち自身の考えで、君たち自身の価値を見積もればいい。  「ぼくにはかけがえのない高い価値がある」  「わたしにはかけがえのない高い価値がある」  お釈迦様のように、自分を高く見積もればいい。  そして、おなじように、ほかの人たちの価値をきちんと認める。  そうすると、自然に否定的な言葉が出なくなる。なぜなら、ほかの人たちを低めるような発言は、必ず自分に跳ね返って自分自身を低めてしまうからだ。  人には同調能力があるので、君たちが高いセルフ・エスティームを維持していると、友だちも高いセルフ・エスティームを持つようになる。受験やスポーツや芸術など、さまざまな分野で高い実績を上げる学校やチームは、全体として、チームとして、環境として、セルフ・エスティームが高い。  もし「わたしたちはだめな生徒だ」「わたしたちには無理だ」というような低いセルフ・エスティームの人たちに出会ったら、君たちは自分を守らなければならない。残念ながら、低いセルフ・エスティームの人たちには、君たちのセルフ・エスティームを低める危険がある。  そんなときは、いつでも自分の目標をしっかりと確認することだ。  目標を達成している自己イメージを思い描き、自分自身を強く信じるかぎり、君たちは負けない。  君たちには絶対的な価値がある。  自分を信じて、勇気をもって目標に向かっていこう。 学院長 筒井保明

そろばん通信|2020年1月号

子年は成長の一年です。  二〇二〇年は子年です。子年には、ネズミを動物として当てます。  紀元前二〇〇年代の秦の時代の竹簡に「子、鼠也」と書かれているそうですが、理由を説明していません。漢字の世界では、音が共通する漢字は意味が関連すると考えます。江戸時代に書かれた『和漢暦原考』(石井光致)を見ると、『「子」は「滋」(繁殖・生長)「孳」(繁殖)であり、つとめて止まず、ますます増える』とあります。みなさんが「子の字があらわす、つとめて止まず、ますます増える動物はなあに?」というクイズに答えるとしたら、どんな動物を思い浮かべるでしょうか?  十九世紀までであれば、中国人に限らず、日本人でも、ヨーロッパ人でも、「ネズミ!」と答えたのではないでしょうか。それほど、ネズミはどんどん増えるのです。  さて、和算・そろばんの世界で、ネズミといえば、まっさきにネズミ算が思い浮かびます。  「正月に、ネズミの父母が子を十二匹生む。親と合わせて十四匹。このネズミたちが一組の父母になって、二月に十二匹ずつ生む。合計で九十八匹。このように、親も子も孫も曽孫も、毎月、十二匹ずつ子ネズミを生むと、十二月には合計で何匹になるだろうか? ※月々に生まれる十二匹はオス・メス半数ずつ」  もとは江戸時代にまとめられた塵劫記(じんこうき)という和算の教科書に載っているのですが、明治・大正になっても、算術や珠算の教科書に取り上げられています。  月々を計算していくと、  一月 親(父母)ネズミが子ネズミ12匹(オス6匹・メス6匹)を生んで、合計14匹。  二月 生まれた子 84匹 合計98匹。  三月 生まれた子 588匹 合計686匹。  四月 生まれた子 4,116匹     合計4,802匹。  五月 生まれた子 28,812匹     合計33,614匹。  六月 生まれた子 201,684匹     合計235,298匹。  七月 生まれた子 1,411,788匹     合計1,647,086匹。  八月 生まれた子 9,882,516匹     合計11,529,602匹。  九月 生まれた子 69,177,612匹     合計80,707,214匹。  十月 生まれた子 484,243,284匹     合計564,950,498匹。  十一月 子 3,389,702,988匹      合計3,954,653,486匹。  十二月 子 23,727,920,916匹      合計27,682,574,402匹。  となり、答えは、二百七十六億八千二百五十七万四千四百二匹になります。  もちろん、珠算では、こんな遠回りはしません。わたしの手元にある『新選珠算実習書』(大正六年)には、「まずこの算法は実(被乗数)に二匹を置き、法(乗数)に七と置き十二度乗ずれば知るなり」と説明してあります。数式であらわせば、  こういった考え方でも珠算と数学はつながっています。珠算に加えて、数学的な発想ができれば、さらに計算は速くなるのです。  陰陽の思想でいいますと、子年は陽が兆す年です。みなさんにとっては成長の年になります。  いい一年にしていきましょう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 December

君たちのもっといい未来 Your Better Future  2020年は、庚子(かのえ・ね)の年である。  江戸時代に書かれた『和漢暦原考』(石井光致)を見ると、『「庚」は、陰気が万物をあらためるので「更」であり、万物は粛然と更改する』とある。  また、『「子」は「滋」(繁殖・生長)「孳」(繁殖)であり、つとめて止まず、ますます増える』とある。  さらに『冬至の日(子月)に一陽が生じて万物が生じ始める』とある。陰陽の思想でいえば、冬至に陰が極まり、そこに新しい陽が生まれる。「子」は、始まりを表している。  十干十二支や陰暦で見ても、2020年の庚子とは、「あらゆることが根本から改まり、新しい年にますます発展していく」という意味になるので、文字どおりであれば、すばらしい一年になるはずだ。  では、子はどうして鼠なのか?  紀元前200年代の秦の時代の竹簡に「子、鼠也」と書かれているそうであるが、それはそう書かれているだけで理由を説明していない。  もし君たちが「子の字が表す、つとめて止まず、ますます増える動物は、なあに?」となぞなぞを投げられたなら、君たちはどんな動物を思い浮かべるだろうか?  当時の中国人は、たぶん、ネズミを思い浮かべた。  日本人も同じだろう。その証拠に、和算に鼠算というものがある。  正月に、ネズミの父母が子を12匹生む。親と合わせて14匹。このネズミたちが一組の父母になって、2月に12匹ずつ生む。合計で98匹。このように、親も子も孫も曽孫も、毎月、12匹ずつ子ネズミを生むと、12月には合計で何匹になるだろうか?  ちょっと計算してみよう。答えは、2×712 = 27,682,574,402で、276億8257万4402匹。つまり、ネズミたちは、つとめて止まず、ますます増えるのだ。  『和漢暦原考』には、十二支に当てられた動物たちの根拠と思われることも書いてあるが、もしかしたら私の想像のほうが当たっているかもしれない。  いずれにせよ、庚子の2020年は、改革の時であり、発展の時を意味する。  さて、このおめでたい年のはじめ、君たちの抱負は、どんなものだろうか?  抱負はどんなに大きくてもかまわない。抱負の意味は、「大志」であり、「理想」だ。だから、途方もなく壮大なものであってもいい。  抱負や目標を考えるとき、方法や手段を考える必要はない。なぜなら、方法や手段は、抱負や目標が決まった後に、生まれてくるものだからだ。  まず自分にとって重要なことを抱負や目標にしよう。  そして、その抱負や目標を達成している自分を思い浮かべてみよう。  晴れやかな笑顔の自分が思い浮かんだなら、さっそく、その抱負や目標に向かって走り出せばよい。走り出すと、やることや手段や方法が次々とあらわれてくるはずだ。  子の年は、万物のスタートだ。これから、君たちの毎日はもっといい未来になる。  希望をもって、自分の目標に向かっていこう! 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 November

わたしはわたし。君は君。 I am what I am. You are what you are.  学習するときにも、練習するときにも、目標を決めるときにも、まず「自分であること」が重要だ。  教育の世界では「個の確立」というのだけれど、いいかえれば「わたしはわたし。君は君」ということである。詩人の金子みすゞの言葉を借りれば、「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」ということだ。  人は、小さなことにこだわる人ほど、他人と自分を比較する。ほんとうは優劣などないのに、うぬぼれてみたり、がっかりしてみたりする。自分には自分の目標があるし、他人には他人の目標がある。目標が重なれば、そこに競争が生まれることがあるけれど、それでもそこに優越感や劣等感を生じさせてはいけない。自分は自分でしかないし、自分は他人にはなれないのだから、自分をかえりみるときは「わたしはわたし」なのだ。他人に自分の行動や感情を振り回されると、君は、自分からも、自分の目標からも、はるかに遠ざかってしまう。  禅宗で使われる公案に「拈華微笑」という話がある。  「インドの霊鷲山で、お釈迦様が花をひねって、みんなに見せた。このとき、みんなは沈黙してしまった。ひとり迦葉尊者だけ顔をほころばせて微笑した。お釈迦様は、わたしには正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相など、微妙の法門があるから、不立文字、教外別伝で、これを迦葉に授けよう、といった」  解釈すれば、「真理を見る目、苦悩のない心、空の世界という法門は、非言語的なもので、以心伝心である。お釈迦様が花をひねったとき、ほほ笑んだ迦葉には、この法門を授かる資格がある。沈黙したみんなは、お釈迦様が花をひねった意味を悟れなかったので失格である」ということだろう。  この公案に対して、「悟りは言葉にできない。お釈迦様が花をひねった意味がわからなかった。わたしは失格だ」と劣等感を抱いた弟子がいたとすれば、それは比較の罠に落ちているのだ。あくまで「彼は彼、わたしはわたし」である。  無門慧開(1183-1260)は、この公案に屈せず、  「黄色の顔のゴータマ(お釈迦様の姓)め。人もなげに、良い人たちをばかにして、羊頭をかかげて狗肉を売っているようなものだ。(看板に偽りありで)なにかましなことがあるか。もし、みんなが笑ったとしたら、いったいどうしたのだ? 迦葉も笑わなかったとしたら、いったいどうしたのだ? もし法に伝授ということがあるなら、人をたぶらかしている。もし伝授ということがないなら、迦葉に授けることなどできるのか?」  仏教の考え方でいえば、「諸行無常(あらゆる現象は無常である)、諸法無我(あらゆる事象は無我である)」であるから、そもそもお釈迦様が迦葉だけを選んで教えるはずがない。法は、その場にいる全員に開かれている。  どのような場面でも、「わたしはわたし。君は君」である。ドライな感じがするかもしれないが、人生の選択の基本は自分だ。いつも付和雷同(安易に他の説に同調したり賛成したりすること)するような人は、やがて自分を失ってしまうだろう。  受験生のみんなは、お互いに励ましあえばよい。一人ひとりが受験生であり、それぞれの目標を持ち、自分のベストを尽くしている。みんなちがって、みんないい。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2019 October

人生の選択 Life Choice  人生とはなにか。  人はどのように生きるべきか。  その人の信念や価値観や原則をひとくくりにした理論のことをその人の哲学という。  たとえば、ソクラテスにも、プラトンにも、ナポレオンにも、勝海舟にも、吉田茂にも、その人自身の哲学があった。  おなじように、君たち一人ひとりにも、君たち自身の哲学がある。  人は生きているかぎり、じつは、自分の哲学を生きているのだ。  「哲学」という言葉は、明治時代のはじめに、西周という学者が、フィロソフィアという原語を訳したものである。フィロソフィアは、自然や人生の根本原理を求めることであった。つまり、すべての学問やあらゆる行動の根底にあるものだ。  もし、ある場面に直面したとき、君が「なにもやらない」哲学を持っていたなら、君は「なにもやらない」考え方をするだろう。  君が「なにもやらない」考え方をすると、君は「なにもやらない」行動にでるだろう。  つまり、君は、どんな場面でも、なにもやらない。  なにかに突き当たったとき、「なにもやらない」君は、これまでの人生で「なにもやらない」哲学を自分のなかに培ってしまっている。受験生として目の前の学習に取り組まなければならないとき、積極的に取り組むことができないのだとしたら、その原因は「なにもやらない」哲学にある。  そんな自分がいやなら、君は、まず自分の哲学を変えなければならない。  君が自分の哲学を変えれば、君は自分の考え方を変えることができる。  自分の考え方を変えれば、君は自分の態度を変えることができる。  自分の態度を変えれば、君は習慣を変えることができる。  そして、習慣を変えれば、君は具体的な行動を起こすことができるようになる。  このとき、必要なのは、君自身の目標だ。  目標を達成したいと願うとき、君は、どんな哲学を持つべきなのだろうか?  「自助努力の哲学」a self-help philosophy「自分自身でやれ哲学」a do-it-yourself philosophy 「いますぐやれ哲学」a do-it-right-now philosophy「手遅れだ(全力で早くやれ)哲学」a it's already-too-late philosophy・・・  これは、公民権運動で大きく揺れていたアメリカのオハイオ州で、ある黒人指導者が仲間を励ましたときの言葉である。 「誰かを待っているんじゃない」「自分でやるんだ」「いますぐやるんだ」「手遅れになるぞ」「君に必要なのは、自分で行動する哲学なんだ」  どれも、目標を達成するために必要な哲学であろう。  君が「自分でやる」「いますぐやる」という小さな決断を実行していると、やがて変化が起こる。  「自分でやる」「いますぐやる」という小さな決断が、君の人生を大きく変えていくのだ。  君の人生にとって、重要な決断のことを「人生の選択」life choiceという。  志望校や受験校も人生の選択であるが、もっと重要なのは、目標に向かって「自分でやる」 「いますぐやる」という君自身の哲学なのだ。 学院長 筒井保明