Day: November 14, 2019

学院長からのメッセージ 2016 March

新しい感動と新しい響きのなかへ出発しよう! Depart in new affection and new sound!  日本の教育の世界で、アクティブ・ラーニングという言葉が頻繁に使われるようになっている。  教育に関して、日本はいつも後追いであり、1991年の※「アクティブ・ラーニング(クラスルームに感動を作り出す)」というレポートあたりが引き金になっているのだろう。  学習効果が、学習者の能動性・受動性に左右されることは、ずいぶん昔から指摘されていることだ。  最初の問いかけは、「受動的な方法で、人は、学ぶことができるのだろうか?」であった。  受動的な方法とは、授業形式のことである。授業を聞く生徒を調べた結果、平均値として、授業開始10分から15分のあいだに集中力は最高になるが、その後、徐々に下がっていくことがわかった。もちろん、教師の工夫で、集中力を取り戻すこともできるのだが、全体としては下がっていく。そして、集中力の持続時間は、生徒の学力に基づくこともわかった。学力が低い生徒は短く、学力が高い生徒は長い。つまり、学力の高い生徒にとって授業形式は有効であるが、学力の低い生徒にとって授業形式は効果が低い。  学校がアクティブ・ラーニングを進めていくとしても、さしあたっての問題は、「生徒の学力層を分けることができるのか」ということになる。そして、「能動的な学習への移行は同時にリスクが高くなるという事実に対処できるのか」ということになる。(この二つの問題を解決しないと、アクティブ・ラーニングはうまくいかない)  さらに、教師の力量も問題になる。学力層に合わせた適切な問いかけができなければ、議論や討論をともなうアクティブな授業は成立しない。また、入学試験を経た後の高校や大学ならば学力層が均質であるかもしれないが、公立小学校・中学校では学力差が大きい。  そういっても、この議論は、教師側から見たアクティブ・ラーニングであり、君たちは、生徒側からアクティブ・ラーニングをとらえればよい。  まず受動的学習(パッシブ・ラーニング)とはなにか。「読むだけ。聞くだけ。見るだけ。見て、聞くだけ」ということだ。つぎに能動的学習(アクティブ・ラーニング)とはなにか。「話す。書く。行う。教える」ということだ。  ある統計では、学習の定着度を「読むだけ10%。聞くだけ20%。見て、聞くだけ50%。話して、書く70%。やってみる90%」としている。あるいは、「読む10%。見て、聞く20%。実演を見る30%。話し合う50%。やってみて繰り返す75%。人に教える90%」となっている。  私自身は、正直、「ほんとうか?」と思う。「どういう読み方をしたか」「どういう聞き方をしたか」「見て、聞いた後、なにをしたか」を問題にしないと、土台のない学習になるリスクがある。  「受動的学習は、入力。能動的学習は、出力」ととらえれば、どちらも重要であることがわかる。  おもしろいことにアクティブ・ラーニングのレポートを読んでいると、君たちではなく、先生の方がよく学べることになる。なぜなら、人に教えることが最も学習効果が高いからだ。  君たちにとってのアクティブ・ラーニングとは、「話すこと・書くこと・試してみること・人に教えること」にほかならない。「読むこと・聞くこと」は、そのための土台である。土台となる知識や能力があってこそ、積極的に、自主的に学ぶことができる。  しっかり授業を受けることからスタートしよう。  ※Active Learning : Creating Excitement in the Classroom by Bonwell and Eison 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2016 February

新しい感動と新しい響きのなかへ出発しよう! Depart in new affection and new sound!  「もう眺めるのに飽きてしまった。もう十分だ。もう知りたくもない。どの音もどの眺めも、 人生の停滞だ。さあ、新しい感動と新しい響きのなかへ出発しよう!」 そういって、フランス生まれのアルチュール・ランボーという 17 歳の詩人は、イギリスの首都ロンドンから旅立った。  学年の変わり目で、君たちも、「現在の学年でやるだけやった。もう十分だ。さあ、新しい学年に出発しよう!」と、決意を新たにしているかもしれない。どの学年であっても、その学年の学習を十分に学んでいると、その学習に飽き足りなくなってくる。次の学年 に進むことが待ちきれない。もっと新しいことが学びたい。もっと発展した学習に挑みたい。もっと、もっと、できるようになりたい。  君たちのそういう気持ちが、次の学年を充実させていく原動力になる。だから、ぜひ、いまのうちに、その気持ちをくりかえし確認しておこう。一方、「私は不安だ」「僕は心配だ」という人もいるだろう。その気持ちこそ、君たちにとって最大の邪魔物で ある。君たちの不安や心配は、言い換えれば、「取り越し苦労」であり、「杞憂」である。取り越し苦労や杞憂は、君たちの人生を損なう危険性をもっている。  『列子』に、「杞の国に、天地が崩れ落ちることを憂うる人がいた。身を寄せるところがなく、寝食を忘れてしまった。それを心配した人が、〈天は気が満ちているところで、君はそこで呼吸しているのだから、空は崩れ落ちないよ〉 と諭した。憂える人が、〈じゃあ、太陽や月や星々も落ちないのか〉と聞いた。諭す人は、〈それらも気のなかで 輝いている。落ちたとしても、君には当たらないよ〉と答えた。〈じゃあ、地面が崩れたら、どうするんだ〉〈地 は塊が満ちているところで、空間を埋めている。足を踏みつけて歩いてみろよ。心配なんかあるものか〉憂える人が納得して大いに喜んだので、諭した人も大いに喜んだ」とあるのが、杞憂の故事である。  学習に関して、「私は不安だ」「僕は心配だ」というのは、杞憂だ。 そもそも学習に取り組んでいないのは論外であるけれど、君たちが「できるようになりたい」という気持ちで 学習に取り組み、その学習方法にまちがいがなければ、必ずできるようになる。そして、君たちの学力は、確実に上がっていく。  ところが、取り越し苦労や杞憂で、君たちが不安や心配を感じているとき、君たちは緊張状態にある。緊張状 態は、学習をする状態ではないから、気持ちが焦るばかりで、学習効果が低い。 「学習に、不安や心配はない。わからないも、できないも、取り越し苦労に過ぎない。私は必ずできる」と考えて、 ゆっくりと呼吸しながら肩の力を抜いていく。リラックス状態が学習を始める前に必要だ。 学習中、やってはいけないことは「ながら勉強」。(新しい記憶の形成を妨げる) 学習のコツは、「まちがえた問題は必ず正答を確認すること」「できなかった問題は正解するまでくりかえすこ と」である。たったこれだけでも、学習効果がグンと高くなる。 さあ、新しい学年で楽しく学んでいこう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2016 January

確信を持って自分の目標を持とう Hold on to your purpose affirmatively!  なぜ、君は学習から逃げてしまうのか?  なぜ、君は学習が苦手なのか?  学習は、本来、進んで取り組みたくなるものであり、誰でも得意になることができるものであるのに、 なぜ、君は学習から逃げ出し、自分から苦手になってしまうのか?  学習に直面したとたん、暗い気分に落ち込んで、学習しない理由ばかりを探していたのでは、まったく前に進めない。 学習の根幹は、「学びたい」という気持ちである。「学びたい」から、進んで学習に取り組むことができる。そ して、「学びたい」気持ちは、いつも積極的なものであるから、学習効果がきわめて高い。学習方法が正しければ、 必ず学習は得意になる。  ところが、教科書やテキストを手にしたとき、顔色が曇る生徒たちがいる。どうやら脳の扁桃体がアラームに なって、嫌な気持ちを引き出してしまっているようだ。 どういうことかというと、たとえば、過去に、学習に関して、誰かから酷く叱られた経験があると、 そのとき「嫌だ!」と思った記憶が、言語的に(論理的に)処理されないまま、 学習=「嫌だ!」という状態で脳に刻みつけられてしまう。  これがトラウマと呼ばれる心の傷で、ふだんは意識されていないのに、教科書やテキストを手にすると、 学習=「嫌だ!」と扁桃体がアラームを発する。そして、嫌な気持ちになっているあいだ、学習をつかさどる脳の海馬という部分の働きが急速に鈍る。「嫌だ!」という気持ちの生徒は学習できない。 (始末が悪いことに、この「嫌だ!」は非言語であるから、どうして嫌なのか、その生徒は説明することができない)  もし、酷く叱られたとき、「これは僕が悪かった。お母さんはテスト結果を楽しみしていたのだから、きちん と学習して、お母さんを喜ばせるべきだった。お母さんは、僕の将来のことを真剣に考えてくれている。今回のことを反省して、次回はしっかり学習しよう」と、目の前の事態を論理的に処理していたなら、学習を嫌うようにはならない。  じつは、学習自体に関しては、絶対に叱るべきではない。「どうしてできないんだ!」と怒鳴って、怖い顔で 睨みつけることは、ただ子どもを学習嫌いにするだけである。その子どもは、学習やテストのたびに、その怖い 顔を呼び起こし、「嫌だ!」という気持ちを強めてしまう。(残念ながら、君が叱られている場合、相手が叱る理 由を考えるのだ。そうすれば、学習自体を嫌になることはない) 誰でも、学習はできるし、必ず得意になることができる。自分自身の目標を持つことができれば、学習の方向 も心の置き所もしっかり定まる。学習から逃げない方法も、学習を苦手にしない方法も、かんたんにいえば、同じである。 「確信をもって自分の目標を持つこと」 何度も考えて、「これが私の目標だ」というものを持つことができれば、学習から逃げることも、苦手になることもない。 本当に行きたいと思っている学校に合格するためには、学習は、「取り組まなければならない」ことではなく、 どうしても「取り組みたい」ことになる。 2016 年が、君にとって、大きな成長の一年になることを願っている。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2015 December

ともに成長する。 We all grow together.  「ご縁」という言葉がある。お釈迦様なら、君が、いま、ここに存在すること自体が「ご縁」であるというだろう。 世界(あるいは宇宙)の森羅万象の結び目の一つが「自分」であるから、たしかに私も君もご縁(結び)によって、いま、ここにいる。「共生」(きょうせい・ともいき)という考えも、生きとし生けるものがすべてご縁で結ばれていることを踏まえて、みんなでともにつながって生きていこう、と呼びかけているのだ。  ところで、君たちは、「さあ、勉強しようぜ」とか「いまから数学をやりましょう」とか、友だちに呼びかけているだろうか。 もし、そういった呼びかけをしていないなら、これからは、そうしよう。テストが近づいてきたら、「もうすぐ定期テストだ。テレビを見るのをがまんして、しっかりテスト範囲を勉強しようぜ」とか「北辰会場テストが 2 週間後ね。さあ、準備を始めましょう」と、君から友だちに声をかけるようにする。すると、君に不思議なことが起きる。  そう友だちに呼びかけることによって、君にやる気が起きるし、学習効果も格段に上がる。 もっといいのは、呼びかけるだけではなく、苦手な教科をもつ友だちに教えてあげることだ。教えることによって、君は、もっとできるようになる。  コセコセと自分の得ばかり考えるような人は、結局、得はしない。相手のためを思って、善意の働きかけをしていると、自分も成長する。かりに君がゲームばかりしていてテストの準備を怠っているとする。そして、悪心が兆きざして、君は、勉強している友だちに「いっしょにゲームしようぜ」と誘いかける。君に誘われた友だちは、誘惑に負けて、学習をやめてしまう。このとき、君は、友だちにとって悪魔になっている。  いっぽう、君は一生懸命に勉強している。君の友だちはアニメばかり見て、勉強をさぼっている。君は、友だちに「友よ。いっしょに勉強しよう。君はやればできるのだから」といって、学習を呼びかける。友だちもその気になって、勉強を始める。こちらの君は、天使になる。君が勉強し、友だちが勉強し、さらにその友だちが勉強し、いつのまにか、クラス全体、学校全体が勉強するようになったら、なんとすばらしいことであろう。  ポール・マッカートニーの歌に、We All Stand Together という蛙(かえる)の歌がある。Win or lose, sink or swim / One thing is certain we'll never give in / Side by side, hand in hand / We all stand together (勝っても負け ても、沈んでも泳いでも/一つ確かなのは、僕らはけっしてあきらめないってこと/並んで、手に手をとって/ 僕らみんなともに立っている) 蛙たちでさえ、みんなともに立っているのだから、君たちはともに立つだけではなく、ともに成長しようでは ないか。 ともに学び、ともに成長することは、小学生でも、中学生でも、そして、いくつになっても、とても重要なこ とだろう。「ご縁を大切にする」とは、君たちが、周りのみんなと、ともに成長することである。 さあ、みんなでいっしょに学んでいこう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2015 November

よく考えることに努めよう! Let us endeavor to think well.  人は考える葦である、というパスカルの言葉を、君たちも聞いたことがあるだろう。パスカルの『パンセ』という断片集には編集の異なるものがあるけれど、最初の編集では、346、347、348と続く部分が、「考える葦」に当たる。 346「思考が人の威厳をつくる。」 347「人は葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものだ。しかし、それは考える葦である。人を押し潰すのに宇宙全体が武装する必要はない。人を殺すには、一滴の水蒸気、一滴の水で十分である。しかし、宇宙が人を押し潰すとしても、人は人を殺すものよりもはるかに高貴であろう。なぜなら、人は死ぬことも、人に対する宇宙の優位性も知っているが、宇宙はそれについて何も知らないからだ。したがって、私たちの尊厳は、思考に存する。そこにこそ、私たちは立ち上がるべきであって、私たちが満たすことができない空間や時間の中ではない。したがって、よく考えることに努めよう。これが倫理の原則である。」 348「考える葦。私が尊厳を探すべきところは、空間ではなく、思考の枠組みの中である。土地を所有しても、勝るわけではない。空間によって、宇宙は私をとりまき、一つの点のように私を取得する。思考によって、私は宇宙を理解する。」  長々と訳したのは、「本当の理解は、全体から来る」ということを知ってほしいからである。名言集というものがたくさん出版されているけれども、一行や二行、取り出しただけでは、本当のところはわからない。(文学でいえば、あらすじでは、名作を味わうことはできない)パスカルがいいたいことは、「人は、物理空間のなかでは、一本の葦のように弱いものでしかない。しかし、人は思考によって情報空間をつくることができ、真実を知る努力によって、宇宙さえも理解していくだろう。真実を知る努力、つまり、思考こそが人の尊厳なのだ」ということではないだろうか。  「人は考える葦である」という言葉は、「よく考えることに努めよう」という言葉とセットになっている。そして、「よく考えることに努めることが倫理の原則である」という言葉は、「思考が人の威厳をつくる」ということなのだ。『パンセ』の最初の編集者が、346、347、348と並べたのは、以上のように考えたからであろう。パスカルの言葉の素晴らしいところは、「よく考えろ」と突き放して命令するのではなく、「よく考えることに努めよう」(Travaillons à bien penser)と励ましてくれるところだ。日本には「下手の考え休むに似たり」ということわざがあるけれど、パスカルなら、「下手は下手なりに、一所懸命に考えることが、人の尊厳をつくるのだ」といってくれるだろう。  わたしは、パスカルに賛成だ。パスカルは、「考えて結論を出せ」といっているのではなく、「命ある限り、真実を知るために、よく考えることに努めよ」といっているのだ。たとえば、パスカルの時代、17世紀の人たちは、相対性理論もビックバンも知らない。21世紀の現在、さらに多くのことが発見され、わかるようになっていくだろう。しかし、際限はない。宇宙と対面していたパスカルは、宇宙に際限がないことを知っていた。だから、自然の中で、ひとつの葦のように弱い私たちは、よく考えることによってのみ、自分の存在を支えることができる。 「よく考えることに努めよう!」という言葉は、すべての人に対する励ましの言葉である。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2015 October

学ぶことは、生きることだ。 Learning Is Living.  グローバル化経済が、確実に進んでいる。外国人雇用の届け出だけを数えても、1994年の13万人から2014年の79万人に増加している。在留外国人の数だけであれば、2014年12月の時点で、212万人、埼玉県に限ると、13万人の外国の人たちがいる。  パナソニック、東芝、ソニー、ユニクロ、野村証券など、多くの上場企業が外国人採用に積極的だ。君たちが社会に出る頃には、上司や先輩が外国人である可能性も大きい。  2015年の中国の大学卒業者は、749万人、日本の大学卒業者は、42万人。人の脳に人種による優劣はないので、かりに中国の大学生と日本の大学生が同等に学習したとすれば、中国人のトップ6.7%(偏差値65以上)だけで50万人を超えるのだから、日本人としては背筋が寒くならないだろうか?  さらにいえば、中国人の大学生は、日本人の大学生と比べて、猛烈に学んでいる。  日本の大学に通うネパール人やスリランカ人やベトナム人や韓国人やアメリカ人の大学生・大学院生に話を聞くと、異口同音に「日本人の大学生・大学院生は、例外はあるけれど、ほとんど勉強しない」と断言する。つまり、10年後、20年後、君たちの日本は、かなり衰退している恐れがあるのだ。  では、その引き金は何であろうか?  おそらく環太平洋パートナーシップ(TPP)の締結であろう。TPPが、物流だけではなく、人の流動性を大きく促進する。外国の人たちが、君たちの競争相手として、すぐ目の前にいることになる。  さあ、この状況を前向きに捉えるか、後ろ向きに捉えるかは、その人の実力や価値観によって異なるだろう。いずれにせよ、「英語は嫌いです」「外国人は苦手です」では、勝負にならないのだ。  英語は、国際語としての地位を確立している。多くの国において、ビジネスの現場では母国語よりも英語である。また、外国人に苦手意識を持つのは、単に慣れていないからで、本質的なところで、どの国の人も「人情」は同じである。  英語に限らず、すべての言語は、生きた場面で使うことによって、はじめて自分が使える言語になる。経験するとわかることだが、日本語が通じない環境において、自分の意思を伝えようと思うとき、自分の脳に日本語は浮かんでこない。得意でない外国語であっても、脳に浮かぶのは片言の外国語である。  君たちの英語学習は、身につける学習 Learning である。学ぶことは、生きること Learning is Livingである。すべての学習は、生きることにつながっていることに気がつけば、英語など、恐れることはない。生きている人間の使っている言葉は、君がその言葉を使うことによって必ず身につけることができる。たとえば、アメリカ人に向かって、“Good morning.”、中国人に向かって、“早上好。”(ツァオシャンハオ)、ロシア人に向かって、“Доброе утро.”(ドーブラエ ウートラ)と呼びかけたことがなければ、朝の挨拶もうまくいかない。しかし、一度、挨拶を交わせば、その言葉は完全に君のものだ。  いま、英語教育が変わろうとしているけれども、使える言葉を身につけることを意図している。音声として英語を身につけることが、これからの英語学習に求められている。  国際語としての英語は、君たちの必需品になる。  学習の秘訣は、学ぶことは生きること Learning is Living だ。積極的に学んでいこう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2015 September

いまの君は、自分が考えている自分だ。 You Are What You Think.  どうして、彼はあんなに自信に満ち溢れているのだろうか?  毎日、きちんと努力しているからだろうか?  それとも、成功体験をたくさん積み重ねているからだろうか?  他人のことをあれこれ詮索しても仕方がないけれど、自信を持っている人物を見ると、うらやましくなってしまう。私となにが違うのだろうか?  自信というのは、自分を信じる気持ちのことだ。  自分というのは、いうまでもなく自分自身なのだから、その自分を信じるのに、じつは理由や根拠はいらない。「私はできる」「私はすばらしい」そう思えば、いいだけのことである。  自分のことを肯定的に考えるか、否定的に考えるか。たったこれだけのことで君の人生自体が変わってしまう。なぜなら、いまの君は、君が考えている自分だからだ。  人は内心で自分自身と対話している。英語で、セルフ・トーク(Self-talk)という。たとえば、失敗したとき、「しまった!」と一人で声を上げるのも、セルフ・トークだ。鏡に向かって髪を梳かしているとき、「俺ってカッコいいかも」というのも、机に向かって学習しているとき、「私は数学が得意かも」というのも、セルフ・トークである。できれば、このセリフから、「かも」を捨てて、「俺はカッコいい」「私は数学が得意」と言い切れると、本当にそうなる。  ところが、「俺はカッコ悪い」「私は数学が苦手」という否定的な言葉を口に出していると、こちらが実現してしまう。  否定的な言葉は、君の力を台無しにする。最近の研究発表では、「私は年を取り過ぎている」と否定的な言葉を口にする老人と、「私は元気だ」と肯定的な言葉を口にする老人が共に体を鍛えると、前者はあまり改善が見られなかったが、後者は顕著な改善が見られたそうだ。  もし、目の前に深い河があるとして、「渡れるぞ」と自信を持って渡るのと、「渡れないよ」とびくびくして渡るのと、どちらが成功する確率が高いだろうか?  「渡れるぞ」という自信は、人の潜在能力を引き出すことができるが、「渡れないよ」という自信のなさは、持っている能力さえ押さえこむ。だから、うまくいくのは、自信がある方なのだ。  学習も同じことで、「できる」と自信を持って取り組んでいけば、必ずできるようになる。ところが、「できない」と思い込んでいると、できない状態が長く続く。  「できる」と思っている方は、できる状態を望んでいるから、できるようになる。「できない」と思っている方は、できない状態を無意識のうちに望んでいるから、なかなかできるようにならない。  君が、君を信じるのに、理由も根拠も遠慮もいらない。自信は、セルフ・トークを肯定的にすることによって、生まれてくる。「俺はできる」「私はできる」が正解だ。  「人事を尽くして時節を待つ」という言葉がある。やることをやったのだから、あとは成功を待つだけだ。もちろん、時節が合わず、うまくいかないこともあるが、長い目で見れば、将来に成功が持ち越されたと見るべきだろう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2015 July

夏休みの革命 Anything is possible.  革命などというと、名誉革命とかフランス革命とかロシア革命とか、政治体制をひっくり返すような出来事を思い出すかもしれない。あるいは、産業革命とか、エネルギー革命とか、IT革命とか、世界を改めるような出来事を思い出すかもしれない。  いずれにせよ、「比較的短期に起こる根本的変化」のことを革命と呼ぶとすれば、夏休みのあいだに、自分自身に革命を起こすことはじゅうぶんに可能だろう。  夏休みの革命とは、どんな革命か?  夏休みの期間を通して、自分の現状を大きく変化させることだ。夏が終わるとき、自分の目の前の世界が大きな可能性で輝いて見えるようであれば、夏休みの革命は成功したといえるだろう。  では、自分に革命を起こすためには、どうすればいいのか。  まず、可能なかぎり大きな夢や希望を抱いてみよう。  どんなに大きくてもかまわない。世界のさまざまな要素によって私たちはつくられているし、私たち自身も世界を構成している要素にほかならないのだから、私たち一人ひとりは、いつでも世界にとって重要なのだ。(ムダな生命というものはない)だから、君が大きな夢や希望を抱くことは、世界にとって望ましいことである。  つぎに、大きな夢や希望までの道のりをイメージして、いまの自分がどうあるべきかを考える。学問であっても、スポーツであっても、芸術であっても、学び続ける意志がなければ、前途を切り開くことはできない。その事実を、しっかりと見つめよう。  すると、自然に「学びたい」「練習したい」「取り組みたい」という気持ちになってくる。猛然と「学びたい」「練習したい」「取り組みたい」という意志がわきあがってくる。  君の世界は、君の意志である。  夏休みという時間は、小学生にとっても、中学生にとっても、高校生にとっても、本当に重要な時間だ。たんに自由な時間が長いということだけでも、その時間は、君にとって可能性を育む時間になる。なぜなら、人は、強制された時間よりも、自分の意志で取り組む時間に、より大きく成長するからだ。  夏休みの計画をつくるとき、将来の自分の夢や希望を思い描いたうえで、「いまの自分がどうあるべきか」を考え、スケジュールを埋めていこう。すでに、君は、「学びたい」「練習したい」「取り組みたい」と思っているだろうから、計画はすぐにできあがるだろう。  毎日、積極的に取り組むことができれば、自分がみるみる成長していくのがわかる。  さあ、自分に対して、夏休みの革命を起こそう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2015 June

目標に向かって、まっすぐな気持ちで学んでいこう。 I will learn for my future self.  夏期講習のタイトルを「目標に向かって、まっすぐな気持ちで学んでいこう!」とした。いうまでもなく、自分の「目標」を持つことが君の学習のスタートだ。だから、夏休みの前段階で、学習の目標を立ててほしい。未来にむかって、とてつもなく大きな目標を立ててもかまわないし、あるいは、とりあえず、9月が始まったとき、これまでの学習が得意になっている自分の姿を目標にしてもかまわない。算数や数学の問題がすらすらと解ける自分でもいいし、英語の教科書のどの部分であっても口に出して言える自分でもいい。一言でいえば、「できる自分」を想定しておくのだ。  そもそも「できない自分」というものはない。「できる」と意志する方向に人は発達するようにできているのだから、君に必要なのは、君が意志する方向、つまり、目標なのである。  たとえば、登校中、友だちとカレーの話をした君は、どうしてもカレーが食べたくなる。夕食をカレーと決めた君は、家に帰る途中で、必要なお店に立ち寄る。タマネギやニンジンやジャガイモを買い、肉を買い、そして、カレー・ルーの棚の前で立ち止まる。どれを選ぶべきなのか。テレビのコマーシャルが君の頭に次々と浮かぶ。君はそれぞれを手に取って解説を読み、必死に考え、「これだ」というカレー・ルーを買う。  さて、家に帰り、タマネギ、ニンジン、ジャガイモ、肉を切って、油でいため、君は手順通りにカレーをつくっていく。鍋の中に具材を入れ、お湯が煮立ち、頃合いを見て、カレー・ルーを入れる。君はカレーができあがるのを期待して待つ。  じつは、君の目標とは、君が期待して待つカレーと同じものだ。君は、君の目標を、カレーをつくるように、手順を決めて仕上げていく。9月の最初が期限だとすれば、それまでに仕上がるように、準備し、念入りに作業を進めるのだ。仕上がりのイメージがはっきりしていれば、たいていそのとおりになる。(ただし、料理と同じで、調理法をあやまると失敗するので、基本は教わらなければならない。)  以上のことでわかるように、人の行動は、未来の目標によって、決まってくる。目標がなければ、人の行動は行き当たりばったりで、そのときの感情で行動が選ばれてしまうけれども(たいていは、手軽で楽しいものが選ばれてしまう)、目標があると、目標を達成するための行動が選ばれる。  「まっすぐな気持ち」というのは、かんたんなことだ。君が心から望む目標であれば、迷うことなく、君は、まっすぐな気持ちで取り組める。  カレーを食べたいと思った君は、迷いながらカレーをつくらない。目標を達成したいと思った君は、迷いながら学習しない。ほんとうに達成したい目標なら、君は、つまらない誘惑に負けることなく、自然に学習に取り組んでしまう。  まず、自分の目標について考えよう。  そして、目標に向かって、まっすぐな気持ちで学んでいこう。 学院長 筒井保明

学院長からのメッセージ 2015 May

ゆっくりと急げ! Festina lente! Make haste slowly.  「ゆっくりと急げ」という格言がある。ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(B.C.63-A.D.14)が好んだ言葉で、ラテン語でフェスティナ・レンテと読む。Festina⇒Make haste(急げ)、Lente⇒slowly(ゆっくりと)である。  「ゆっくりと急げ」などというと、君たちは、「急ぐときでもあわてるな」とか、「落ち着いて急ぎなさい」とか、あるいは、「急がば回れ」などと考えるかもしれない。言葉は状況の中で意味が変化するから、どれも正しいのだけれど、「ゆっくりと急げ」を体現して見せたのが、イソップ物語の亀である。  「野兎が亀の遅い歩みをからかって、自分の足のスピードを自慢した。亀は競走を持ちかけて、勝ってみせるよ、といった。じゃあ、勝負だ。  狐が審判になって、彼らは走り出した。野兎は風のように駆け出して、ずっと前方で、笑いながら亀が見えるのを待った。ずいぶん待っても亀が見えないので、『勝負は決まったな、道端の草の上で一眠りしよう』といった。一方、亀は、止まらずに、着実に、ゆっくりと走り続ける。  野兎が目覚め、驚いて、道を駆け下りた。でも、遅かった。ゆっくりとした亀は、最後のラインを越え、競走に勝った。  教訓:長い道のりでは、ゆっくりでも確実なことが、最も速い方法だ」(『イソップ物語』より)  誰もが知っている話である。君たちがここで注意しなければならないことは、「ゆっくりと」には「確実に」の意味が込められているということだ。  このイソップの寓話は、目標を達成する方法を示している。たいていの目標には期限が付いているから、私たちは「急がなければならない」のだ。受験生ならば、痛切にそう感じているだろう。でも、最初の勢いばかりで、野兎のように油断してしまうと、目標にはたどりつかない。世にいう三日坊主とは、この野兎のことである。  亀は、野兎に対して「勝ってみせるよ」といった。誰が見ても勝てるはずのない勝負である。じつは、このとき、亀が見ていたのは、目標と目標に到達する自分のことだけで、野兎など、そもそも眼中にない。(もし、野兎に関心があったら、遠く走り去っていく野兎を見て、自分が走ることをあきらめただろう。また、油断して寝ている野兎を追い越すとき、感情を動かしたはずだろう。)  野兎のことなど一切気にせずに、亀は、目標を達成するために、ゆっくりと走り続けた。  亀は、目標を持ち、目標を達成しようとする人の象徴だ。  野兎は、やみくもに走り出し、途中で歩みを止める人の象徴だ。  さて、「ゆっくりと急げ」という格言を念頭に、フランスの作家ラ・フォンテーヌが「野兎と亀」を書き直した。もちろん、野兎は亀を大きく引き離し、途中で、余計なことに興じて、居眠りを始める。一方の亀は、出発し、コツコツと努力し、ゆっくりと急いだ。  勝った亀が、最後に次のようにいう。  「わたしが正しかったでしょ。速度が役に立ったかしら? わたしの勝ちね。そのうえ、もし、あなたが家を背負っていたら、どうなっていたかしら?」  亀のいう「家」が比喩なのか皮肉なのかわからないけれども、「ゆっくりと急げ」の意味は理解できるだろう。目標に向かって出発したら、君たちは、ゆっくりと急がなければならない。 学院長 筒井保明